俺の全てで、
久し振りに、一日休養日として何の仕事もしないと決めた日。
紅は初めてとなる試みをした。
常日頃、休みなく従う氷景に暇を与えたのだ。
「…姫さん。俺は忍だから暇は必要ない」
当然の事だが、氷景はそう言った。
仮に、素直に暇をもらって、その間に主に何かあったらどうするのか。
氷景の言い分もわかるけれど、これは決めた事だ、と紅は強気だった。
「私は今日、一歩も城を出ないわ。約束する。それから、あなたが一番信頼する部下を一人つけて」
紅の真っ直ぐな視線に、氷景は言葉を失った。
その心中で、「まったく、この人は…」と呆れる。
良くも悪くも純粋で、それでいて驚くほどに広い視野と深い思考を持つ主は、余計な事に気を回す。
しかし、氷景にとっては余計な事でも、彼女にとってはそうではないのだろう。
ここで頷かなければ、命令として暇を貰う事になりそうだ。
悩んだ結果、氷景は大人しく頭を垂れた。
「…謹んで頂戴いたします」
「うん。ゆっくり休んでね」
忍としては問題があろうと、嬉しそうに笑う主を見れば、これでいいのかもしれないと思った。
さて、暇を与えられたからと言って、氷景に何かしたい事があるかと言えば…何もない。
忍と言う服を脱いでしまえば、日常生活の送り方すら、見失ってしまう。
「ゆっくり休めって言われてもな…」
真っ昼間から布団に寝転がる気にはなれないし、逆に目が冴えてくるだろう。
かと言って、気になるからと陰から紅の様子を見に行けば、絶対に気付かれる。
忍の気配すら感じ取る紅の察知能力は、最早神がかっている。
初めてそれを知った時は、忍としての能力の低さを悩んだ。
佐助も同じ状況だと知り、自分が衰えたわけではないと知って安心したものだ。
「久々に鍛練でもするか…」
何もする事がないから、ととりあえず凍雲の毛繕いをしていたのだが、それもすぐに終わってしまった。
次にする事を、と考えて浮かんだのは、鍛練だけ。
全然休んでない、と怒られそうだが…そうなったらそうなった時だと結論付けた。
この時間帯ならば誰もいないだろうと、鍛練場へ向かう。
どこに隠していたのかと思うような量の苦無を取り出し、一気に投げる。
真っ直ぐ飛んだそれが、的となる稲わらの束に突き刺さった。
一つも外れる事無く命中したそれを見て、小さく息を吐く。
音もなく床を蹴って飛び、的の頭上に来た所で腕から糸を伸ばす。
空中から投げて何重にも巻きつけると、的の向こうへと着地し、ぐっと糸を引く。
大した抵抗もなく、稲わらが分断された。
手の感触だけでそれを悟った氷景が立ち上がり、振り向こうとした所で聞こえてきたのは小さな拍手。
音に引かれてそちらを向くと、開け放たれたままだった入口の所に、紅がいた。
「相変わらず良い腕ね。空中であんな動き…翼でもあるみたい」
「姫さん…」
あまり煩くしたつもりはないのだが、もう見つかってしまったのか。
お叱り覚悟で彼女の元へと近付くと、紅は苦笑と共に彼を迎えた。
「…そんな顔しないで」
そう言うと、紅は持っていた手拭いを氷景に差し出す。
受け取るべきか、否か。
悩む氷景に、紅は強引にそれを押し付けた。
「叱りに来たわけじゃないわ。休みの日をどう使おうが、自由だもの。
私の気配に気付かないくらいに鍛練に集中できたなら、それはそれで良い事だわ」
そう言った紅の言葉に安心すると同時に、痛い所を突かれたと眉を顰める。
確かに、拍手の音がするまで彼女の存在に気付かなかったのだ。
いくら気配を読むのも消すのも得意な彼女とは言え…ここまで近付かれて気付かないのは問題だ。
集中しすぎたな、と心の中で反省する氷景。
「集中しないと磨かれないものだってあるわよ」
気にしないで、と苦笑し、持ってきた水筒も氷景に手渡してしまう。
「安心して?ずっとあなたを見張っていたわけじゃないし、その意図があったわけでもないわ」
そう言った紅の腕には、彼女の愛刀の小太刀があった。
彼女も鍛練のためにここに来たのだろう。
それならば、この手拭いも水筒も、彼女が自分自身のために持ってきたもののはず。
受け取るべきじゃなかったと返そうと口を開く氷景に、紅が振り向いた。
「それ、返さないでね。私の分は彼に頼んだの」
そう言って紅が指した方には、彼女の護衛を務めている忍がいた。
護衛が対象者から離れてどうする、と思うけれど、自分も彼女に言われればそうするだろうから咎められない。
音もなく近付いてきた忍からそれらを受け取ると、紅はありがとう、と微笑んだ。
一瞬動きを止め、頭を下げてから姿を消す忍。
手早く髪を結い上げた彼女が、小太刀を鞘から抜く。
そうして準備運動のように数回の素振りをしてから、彼女は振り向いた。
「さて、と…相手、する?」
悪戯な笑顔でそう問いかける紅。
「…姫さん…」
「…冗談よ」
冗談でも鍛練でも、彼が相手をしてくれない事くらいはわかっている。
クスリと笑った紅は、彼に背を向けて歩き出す。
構えを取り、ゆっくりと瞼を伏せた。
そして、想像上の相手に向かって、鋭い突きを繰り出す。
左で薙ぎ、右で斬り上げ、斬り下ろす。
剣舞のように、次から次へと両手の小太刀を振る彼女の目には、どんな敵が映っているのだろう。
穏やかな空気はなく、武士としての彼女を、ただじっと見つめる。
彼女の動きを見ていると、その向こうに本当に相手がいるような気がした。
一人、二人、三人。
紅の刀が動く度に、敵が倒れる様子が目に浮かぶ。
心の中で相手を斬る事を悔やみながら、それでも彼女は刀を握る―――守るべきもののために。
一切の隙を許さない、流れるような動きが終わった。
肩で息を整える彼女の背中は細い。
その細い身体でどれほどのものを守ろうとしているのだろう。
振り向いた彼女の目に、その決意の強さを見た。
―――守ろう、この人を…俺の全てで。
強くなった想いと共に苦無を握る。
準備動作なく投げたそれは、真っ直ぐに的へと突き刺さった。
Request [ 七周年企画|浅葱さん|ヒロインと氷景のほのぼの、日常の一コマの話 ]
11.09.25