思い出した約束を、

何かさぁ、と腕を組んだ紅が呟いた。
その呟きを聞きとめた成樹が顔を上げ、彼女を振り向く。
しかし、その下半身は固定されており、いかに彼の身体が柔らかくとも、正面に彼女を捉えることは出来ない。
彼の半身を固定しているのは、生まれたばかりの我が子だ。
胡坐をかいた足の上に寝転がされている我が子は、それを気にした様子もなくすやすやと安眠している。

「…親馬鹿」

寝顔を見下ろした成樹の口元が緩むのを見て、紅はそう肩を竦めた。
リビングの床、日当たりのよい場所を陣取って、毎日毎日飽きもせず同じことを繰り返す。
そんな成樹と赤ん坊の姿は、既に写真に収められていた。
いつかあの子が大きくなった時、こんなんだったんだよと見せてあげられるように。
どこまでも微笑ましい光景は、紅にとって悪いものであるはずがない。
二人を見ているだけで自然と表情が穏やかになり、包む空気も優しくなる。
もう一枚撮っちゃえ、とデジカメを構える。
紅の手元からピピッと電子音が響く。

「なぁ、紅」
「うん?」
「喉乾いたんやけど」
「…自分で飲みに行きなよ―――って言っても無駄なんだよねぇ」

動けないもんね?と呆れたような口調で言うけれど、表情は笑顔。
デジカメを成樹に手渡すと、その足でキッチンへと向かってペットボトルのお茶を持ってくる。
はい、とそれを手渡し、両腕が空くと彼の膝から赤ん坊を抱き上げた。

「…何で連れてくん?」
「人攫いみたいに言わないでくれる」
「似たようなもんやで!折角―――」
「あー煩いって。この子が起きる」

声を小さくそう言うと、成樹はぴたりと口を噤む。
流石、赤ん坊効果は偉大だ。
難なくタオルケットごと赤ん坊を抱き上げた紅は、リビングの端にあるベビーベッドへと足を向ける。
先ほどの成樹の声を聞いても起きる気配のないわが子を寝かせ、そっとシーツをかけた。
追ってきた彼はやはりまだ不満げで、もう少し膝の上に抱いておきたかったと言う本音がダダ漏れだ。

「はい」
「はい?」

紅がどこからともなく紙の束を取り出し、成樹の手に握らせる。
疑問符を浮かべつつもそれを受け取った彼は、そのタイトルを読んで表情を歪めた。

「どっかの親馬鹿をしっかりトレーニングさせろって監督からの指示だから」
「…監督…ええやん、子どもが生まれた今くらい…」

がくりと肩を落とす成樹の手に握られたそれは、所狭しと書かれたトレーニング計画。

「生まれた時くらいって…成樹、もうひと月経ってるけど」
「知っとるよ」
「その間にチームに参加した日数、わかってる?」
「……………」

沈黙は肯定。
まともに参加した日数なんて、もしかしたら片手で足りてしまうかもしれないのだから、当然だ。
実力が伴っていなければ、レギュラー落ちどころか契約を切られてもおかしくない。
監督のビールで大層肥えた腹は、見た目だけでなく実に太っ腹だった。

「ちゃんとメニューを熟すなら、来月の試合まで大目に見てやるって」
「ホンマか!?」
「うん。でも、それ報告するから」
「わかっとるって!報告ぐらい適当に―――」
「報告するの、私の役目だよ」

パァッと輝いていた顔に、一気に立ち込めた曇天。
初めから誤魔化すつもりだったらしい彼には、最早溜め息しか出てこない。
何だか、風祭に会う前の飄々とした“佐藤成樹”が帰ってきてしまっている気がする。

「別に、やりたくないなら無理にやれとは言わないけど…」
「…何や、優しいな…」
「私が復帰するから家事と子育て代わって」

紅の名誉のために言うならば、家事や子育てが嫌なわけではない。
ただ、彼女もまた、第一線で戦っていたチームのエースなのだ。
妊娠が発覚し、程なくして普通の会社よりも長い産休に入ったけれど、気持ちはまだ続いている。
せめてこの子が一歳になるまでは家にいようと決めたけれど、戻れるものなら戻りたいと思う。
紅にとって、サッカーは人生そのもので、他と天秤にかけられるものではないから。

「…すまん」
「ん、わかればよろしい」

お互い、どちらもが本心からそう言ったわけではないとわかっている。
成樹は赤ん坊が可愛すぎるだけだし、紅は身体が鈍っていてとにかく動かしたい。
ある意味では、成樹が家事と育児を代われば万事解決にも思える。
紅の母も、復帰するなら日中は世話をしてあげると言ってくれた。
けれど、選手である前に、生まれてくる子どもの“母親”であってほしい―――そう望んだのは、成樹自身だ。
彼は「いずれ復帰しても構わないから、せめて一年だけは」と言った。

「私の分も頑張ってくれるんでしょ?」
「せやな。そう言う約束やった」

何かを思い出したように、成樹の目に少年時代の光が垣間見えた。
よし、と頷いた彼は、徐にルームウェアに手をかける。

「俺のジャージはどこやった?」
「部屋の箪笥。って言うより、前から全然変えてないけど」
「さよか。とりあえず、メニュー1つ目のランニング20kmクリアしてくるわ」

漸くやる気を取り戻してくれたらしい彼の背中を見送り、肩を竦める紅。
ベッドで眠っていたはずの赤ん坊が、いつの間にか大きな目でこちらを見上げていた。
泣くでもなく、ただただ不思議そうにこちらを見上げている。
紅は小さく微笑み、そっと腕を伸ばして赤ん坊の頬を指先でくすぐった。

「やっと格好良いお父さんが帰ってきたみたいだね」

親馬鹿な成樹も悪くはないんだけど、と本人には絶対に聞こえないように小さく小さく呟きを落とす。

「紅、今から2時間ぐらい空けても構へんか?」
「いいよ。聞くの遅いと思うけど」

上下ジャージ姿に着替え終え、長い金髪を後ろで束ねた成樹がリビングに入ってくる。
それだけ準備万端にしておきながら、今更聞くのか、と思わず笑う紅。
クスクスと笑われた照れた顔を誤魔化すように籠からタオルを取り上げ、首に下げる。

「ほな、行ってくるわ」
「はいはい、行ってらっしゃい」

赤ん坊を抱き上げて、玄関に向かった彼を追う。
ランニングシューズを履き終えた成樹が顔を上げ、紅の腕にいる赤ん坊を見て表情を緩めた。

「お母ちゃんの事、頼むで」
「無茶な事を」
「今は無茶でもいつかは出来る男になるで。なぁ?」

頭を撫でながら、まるで少年のように歯を見せて笑う。
同意を求められたタイミングで、あぅ、と声を発した息子に、二人して噴き出した。

「将来有望かな」
「ほんま、俺に似てええ男になるわ」

そう言うと、頭を撫でていた手を伸ばし、紅の頭を軽く引き寄せる。
彼女の頬に軽く口付けると、行ってくるわ、と玄関を出て行った。

「“ええ男”…ね」

本当に楽しみだ、とふくよかな頬をつん、と突いた。

Request [ 七周年企画|くるみさん|産まれたばかりの息子にほのぼのする日常の話 ]
11.08.27