秘密の約束を、君と、

「痛ェ!!」

体育館に響いた声は、もう何人目だろうか。
やれやれ、と溜め息を吐き出し、原因である人物を見る部員たち。

「…手が滑った」

被害者の数と同じだけ、この言い訳を口にしているのは流川だ。
いつもは不機嫌な顔をさらに不機嫌にしていて―――と言うあたりの変化に気付くのは紅くらいだろう。
「今日の流川は不調だなぁ」なんて言っていられたのは、最初の三人までだ。
四人、五人と被害者が増えれば、誰だって不調などと言う言葉で片付けられない状況であると気付く。

「…紅、あんた…何したの?」
「………何もしてない…と思うんですけど」

こそこそと紅に近付いてきた彩子が尋ねると、彼女は困ったように首を傾げた。
その表情は誤魔化しているようには見えず、彼女自身も本当にわからないらしいと悟る。

「ルカワが不調な今、頼れるエースは俺だけ!!」

俺の時代が始まったとばかりに勢いづく桜木は、まだ被害に遭っていない。
この言葉自体が流川を認めている発言だと思うのだが、彼自身はその事に気付いていないだろう。
彼はタオルを運ぶ紅に気付くと、身体ごと彼女の方を向いて元気に手を振った。

「紅さん!今日こそルカワの鼻っ柱をへし折ってやります!!」
「あー…うん、頑張ってね。それより―――」

危ないよ、と言う声は届かなかっただろう。
ドカッと派手な音が後頭部を直撃し、視界には星が飛んだ。
そのまま顔面から倒れ込んだ桜木の向こうには、やはり不機嫌な様子の流川がフン、と鼻を鳴らしている。

「…どあほう」

今回は、形だけ誤魔化すつもりすらないようだ。









休憩ー、と彩子が笛を鳴らして声を上げる。
部員たちが一斉に肩の力を抜いた。
特に、流川と対峙していたチームは、普段とは違う緊張感から解放され、安堵の息を吐く。

「あ。赤木キャプテン」

何かを思い出した紅が、いそいそと彼の元に近付く。

「…あぁ、そう言う事なら構わないぞ。休憩時間中なら」
「わかりました。ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げた紅は、こちらを見ていた彩子に向けてVサインを作る。
そして、駆け足で体育館から立ち去った。
程なくして戻ってきた紅の腕には、大きなお皿が二つ。

「今日の調理実習で、先生が材料をまとめ買いしたから余ってて…折角だから、作らせてもらったんです」

部員たちの疑問に笑顔で答え、それを壁際の会議机に置く。
皿の上には焼きあがってから暫く経っているらしいレモンパイがあった。
部員の人数以上に切り分けられたそれの横に紙皿を置き、準備を終えた紅はくるりと振り向く。

「部活中だから、パイはどうかと思ったんですけど…よかったら、どうぞ」

確かに、焼き菓子は運動中に進んで食べたいと思うものではないかもしれない。
しかし、それは思春期真っ只中の彼らにとっては些細な事だ。
女子の手作りのお菓子―――食べないと答える奴がいるなら、教えてほしい。
そう言わんばかりの勢いで、一斉に集まる部員たち。
紅はあまりの勢いに思わずその場から逃げ、荷物の所へと避難した。
それでも、両手に一切れずつ皿に載せ、運んでくるあたり抜け目がないと言うべきか。

「はい、彩子先輩の分」
「ありがとー!紅のお菓子って美味しいから好きなのよね!」

よく確保した、と頭を撫でられる。
子どもみたいだと思うけれど、悪い気はしないので抵抗はせずにそのままだ。
早速とばかりにそれを食べだした彩子は、ふと紅に問いかける。

「何でレモンパイにしたの?」
「え?あー…えーっと…」

紅は彩子の問いかけに即答せず、僅かに頬を赤らめてから視線を逃がす。
そして、逃げ切れるはずがないと思いだし、肩を竦めた。

「流川が、作るならそれがいいって」
「へぇ~…」

何も言われなくたって、わかる。
にやにやと見つめられ、居た堪れなくなった紅は、逃げるように立ち上がった。
そして、休憩が始まると同時に出ていき、今まさに体育館に戻ってきた流川の元へと駆けていく。

「…やっぱり、流川の不機嫌の原因はあんたじゃないの」

これがいいと言ったと言う事は、彼は紅が部員たちに焼き菓子を振る舞う事を知っていたのだ。
今までの行動の理由を悟り、口元に笑みを浮かべる彩子。
最後の一口を食べてから、視線で紅を追う。
彼女は既に流川の元へと辿り着いており、持っていた皿を彼に渡していた。
確保していた一皿は彼女の分だと思っていたけれど、どうやら流川の分だったらしい。
受け取った流川が迷いなくそれを口に運び、紅が何かを問う。
小さく、そして短く答える彼に、彼女は安心したような笑顔を見せた。

「これで気付かれてないのが不思議だわ」

残りの数切れを争うメンバーの視界の外で、ほのぼのと和む二人の姿。
一度でも振り返れば、一目見て二人の関係に気付くのに―――誰も、振り向かない。
傍から見ている分には不思議だったけれど、紅との約束があるので自分から他言はしない。

「…今度、また焼いてもらわないとね!」

なくなってしまったパイは、予想していたよりも美味しかった。
何か理由をつけてまた作ってもらおうと決め、マネージャー業へと戻る。












「何で不機嫌だったの?」

帰り道、そう問いかける紅に、流川は沈黙を返した。

「…理由、聞かない方がいい?」
「別に」
「じゃあ、なんで?」
「…知らねー」

そう答えられ、紅は彼を見る。
前を向いて視線を逸らす流川の横顔を見つめていたけれど、頬に答えが書いてあるわけではない。
知らないと言う言葉を信じたわけではないが、追求する必要性を見失った。
溜め息一つで話題を完結した彼女は、思い出したようにカバンを漁る。

「今日のレモンパイがかなり気に入ったみたいで、また作ってくれって頼まれたんだけど…」
「誰からだ?」
「え?彩子先輩」

言葉を遮ってまでそこに食いついてくるとは思わなくて、きょとんとした表情で答える彼女。
その答えを聞き、流川は「ならいい」と再び前を向いた。

「流川も要る?今度の日曜日は部活が休みだし…その日に焼いて、翌日渡そうと思うんだけど」
「食う」
「わかった。じゃあ、詳しい時間はまた連絡するね」

そうしている間にマンションの下へと到着する二人。
どちらともなく足を止め、降ってきたのは沈黙。
ふと顔を上げれば視線が絡み、何だか照れくさくなってしまって、視線を逃がしながら小さくはにかむ。

「じゃあ…帰り、気を付けてね」
「おう」
「…おやすみなさい」

自分がいたら、流川が帰ろうとしないと知っているから、エントランスへと向かう。
その途中、彼に呼び止められ、驚いたように振り向いた。

「もう部の連中には作んなよ」
「…喜んでたけど…」
「……………」
「…わかった」

Yesと頷くまで納得してくれそうになかったから、とりあえず頷く。
そして、話が終わったようだとエントランスに向けた足を動かし…エレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、まだこちらを見ていた彼にひらりと手を振る。
重力に逆らって動き出す箱の中、彼の言葉の意味を考えてみた。

「…食べさせたくないから、とか」

まさかね、と否定した考えが真実だと知るのは、それからずいぶん後の事だった。

Request [ 七周年企画|きたにさん|ほのぼの、または、ちょっとやきもちを焼く話 ]
11.08.16