その感情に戸惑って、
氷景、とその名を呼ぶだけで、すぐに理解する彼。
言葉にするまでもなく動いてくれる彼が、忍としてどれほど優秀なのかはよくわかっている。
あれをしてほしい、これをしてほしい。
そうして、彼にしかできない事を望むのは多い。
まさか、あなたがそう感じるなんて、思わなかったから。
その日の政宗はいつになく苛立った様子だった。
態度に出ていたわけではないけれど、空気でそう感じる。
触らぬ神に祟りなしとは言うが、腫れ物に触れるような態度は逆に気に障るだろう。
そう思って、気付いていても気付かない振りをして、いつも通りに過ごしていた。
その結果―――
「…お願いします!何とかしてください!!」
ずらっと並んだ頭、頭、頭…目の前の光景に目を見開く。
驚き以外にどんな顔をすればいいのだろうか。
「…どうしたの?」
とりあえずそう尋ねると、待ってました!とばかりに顔を上げて口々に訴えを始める。
要約すると「政宗様が恐ろしいので何とかしてほしい」と言う事らしかった。
何でも、訓練に容赦がないらしい。
見れば、並んでいる彼らの全員がボロボロで、目元に大きな痣を作っている者もいた。
「…何がお気に召さなかったのかしら」
午前中、確かに機嫌の悪さを感じていたけれど、誰かに八つ当たりするほどではなかったと思う。
となると、そこから訓練までの間にあった事が原因で、より酷くなったと言う事だ。
思い当る要因がなく、首を傾げる紅。
「とりあえず、汗を流してからお寛ぎになるだろうから、そこで話を聞いてみるわ」
天の助けとばかりに喜ぶ彼らを見ていると、関わらないでおこうなんて言っていられないことがよくわかった。
そんな状態の彼と会う事に対して、ほんの少しの不安を抱きつつ、紅は足早に彼の元へと向かう。
最近の政宗は、いつもこの時間帯にその場所にいた。
時間の関係で具合よく日陰になるそこは、初夏の暑さを凌ぐには丁度良いのだろう。
パチン、と扇子を折りたたむ音が聞こえるそこに向かって足を進める。
「お疲れ様でした」
冷やした茶を彼の隣へと置き、その傍らに腰を下ろす。
紅を一瞥した政宗は、何も言わず視線を動かした。
その沈黙は、紅にとっては決して居心地の悪いものではない。
けれど、彼から感じる空気にはやはり違和感があった。
「…紅」
「は、はい!」
どうしようかと考え、ぼんやりしていた所為だろうか。
返事の声が上ずってしまった。
「どうした?」
「いえ、お気になさらず。…どうされましたか?」
気を取り直して問い返すと、政宗はこちらを見ていた視線を庭先へと戻す。
紅はその横顔を見つめ、彼の言葉を待った。
「………氷景は」
「氷景ですか?彼なら、近くにいてくれているようですけれど…」
呼びましょうか、と尋ねると、即座に否定の声が返って来た。
やや乱暴な返答に、思わず目を瞬かせる。
やはり、虫の居所が悪いらしい。
「氷景を下がらせろ」
「…わかりました」
ここは素直に従うのが得策だろうと、何も聞かずに頷く。
そうして、彼を呼ぼうとしたところで、庭先へと影が降り立った。
何を言わずとも、理解してくれているようだ。
紅は小さく笑みを浮かべた。
「氷景」
「御意」
返事一つでその姿が消え、気配すらも瞬く間に遠のく。
やがて、紅でさえも気配を感じ取れなくなると、彼女は改めて政宗の方を向いた。
いや、向こうとした、と言うべきだろうか。
彼の姿を映すよりも前に、腕を引かれて視界が揺れた。
瞬きの間に縁側の床板にその身を横たえる事になったけれど、彼の気遣いのお蔭なのか、背中への痛みはない。
自分を見下ろす鋭い眼差しに、紅はただただ驚き、言葉を失った。
「政宗、様…?」
もしかして、彼を苛立たせているのは自分なのだろうか。
今になって初めて、そう考えた。
不安が紅の脳裏を過り、それが感情となって彼女の瞳を揺らす。
それに気付いた政宗が、否定するように優しい手つきで彼女の頬を撫でた。
けれど、手の優しさとは裏腹に、その独眼は何かを訴えるように細められたままだ。
「私が直接の原因でなくとも、無関係ではないのですね」
一連の様子を見てそう悟る彼女は、やはり賢い人間だと思う。
そう感心する心中で、ならば何故気づかないのか、と呆れが膨らんだ。
その違いには気付くのに、政宗の感情の原因が分からないとは。
「原因は、わかるか?」
「…いいえ」
「氷景を下がらせた理由を考えろ」
「まさか、氷景が何か?」
即座に検討違いの方向へと走った彼女の思考を修正するように、違う、と即答する。
「言い方を変える。氷景をお前から離した理由を、考えろ」
「私から、離す…?」
確かにそう言う状況だが、何故、彼はそれを求めたのか。
氷景が紅の傍にいる事で、何か不都合があるのだろうか。
考える彼女の答えは、どこまで行っても正解には辿り着きそうにない。
普段の勘の良さはどこへ消え失せたのか―――呆れつつも、これが彼女なのだと納得してしまう。
毒気を抜かれたように苦笑を浮かべた政宗は、彼女との距離を詰め、そっと額を合わせた。
近くなる距離に彼女の頬が朱色に染まる。
「忍と主はそう言うもんだってわかってるつもりだがな」
「は、はい」
「お前らは互いを分かり合い過ぎてて―――流石の俺も、妬ける」
「や、ける…妬ける?…政宗様が?」
“妬く”の意味が理解できず、数秒を経て理解したそれは、彼にはあまりにも不似合いな言葉だった。
彼はどんな些細な事でも受け止めてくれる、大きすぎる器を持った人だと思っていたから。
「俺も、嫉妬なんざ初めてなんだが………失望するか?」
「まさか!」
勢いよく首を振ると、彼女は目元まで赤くして、恥ずかしそうに視線を逃がす。
それから、意を決したように唇を結び、そっと彼の首元に腕を伸ばした。
その肩に額を埋めるようにして、ギュッと抱き付く。
政宗はその身体に負担がかからないようにと、彼女の背に手を添え、好きにさせた。
「妬いてくれるのは…嬉しいです。でも、氷景は忍で…」
「ああ、わかってる。任を解けとか、常に別行動させろとか言うつもりはねぇよ」
「ありがとうございます。…でも、それなら…私はどうすればいいんでしょうか?」
現状を維持する事を求めれば、政宗は何も言わずそれを許してくれるのだろう。
しかし、それは紅が嫌だった。
彼に不快な思いをさせたくはないけれど、自分の忍である氷景を遠ざける事は難しい。
「この場所だけは、氷景を置いて来い。それでいい」
「…それだけで、いいんですか?」
「それ以上は必要ねぇ」
顔を赤くしながらも視線を戻した紅は、政宗の目を見つめる。
その目に偽りも迷いも見受けられないと知り、漸く表情を和らげた。
「お約束します」
「おう。悪―――」
謝ろうとした彼の言葉を遮った。
そっと触れさせた唇を離し、再び顔を隠すようにその首元へと縋りつく。
そんな彼女の反応に小さく笑い、その背を支えるようにしてごろりと縁側に寝転がった。
もう、先ほどまでの苛立ちはない。
驚くほどに穏やかな心中につられるように笑みを浮かべ、静かに瞼を伏せた。
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11.07.17