最大級のその先に、
その日、紅は朝から病院にいた。
特に体調が悪かったわけではなく、年に一度の健康診断の結果を聞きに来ていたのだ。
会社に届くよう手配してもらうことも出来たが、自分の健康が気になったので直接受け取る事にした。
結果の用紙と一緒に渡されたものと、医者からの言葉。
それは、彼女を驚かせるには十分すぎるものだった。
太陽が真上に差し掛かる頃。
いつもとほぼ同じ時間に、チームは昼の休憩に入った。
お疲れー、と声を掛け合うメンバーたち。
飛び交う会話は母国語ではないけれど、もう慣れたものだ。
外に食べに行くメンバーと弁当を持参しているメンバーは、大体半数ずつに分かれる。
外食はお金がかかるの!と財布の紐を固くする紅のお蔭で、普段は弁当を持ってくる翼。
しかし、今日は紅が一日休みを取っているので、昼食を共にする予定だ。
「翼、お前はどうするんだ?」
「今日は外。でも、約束があるから一緒には行かないよ」
弁当組に声をかけられてそう答えると、練習会場の入り口から翼を呼ぶ声が聞こえた。
大きく手を振るチームメイトの隣にいた紅に、翼の目が見開かれる。
早足でそちらへと向かえば、彼女もまた、彼の方へと駆けてきた。
「どうしたの?待ち合わせは―――」
「翼!!」
何かあったのか、と驚く翼の声を遮る意図があったのかなかったのか。
走る勢いのまま芝生を蹴った彼女は、そのまま翼の首に抱き付いた。
残っていたメンバーから口笛が飛ぶ。
周囲の反応など全く気にせず、首からぶら下がりそうなのに腕を離そうとしない彼女。
咄嗟に抱えるように両腕を差し出し、とりあえずは安堵する翼。
一体何なの、と問うべく口を開くが、肩に縋りつくのをやめ、勢いよく顔を上げた彼女に思わず口を閉ざす。
「赤ちゃん出来たの!」
彼女の口から飛び出したのは日本語だった。
家での会話は殆どが日本語だから、久し振りと言うわけではない。
それなのに何故か、理解に時間を要してしまった。
「…赤ちゃん?」
「うん!6週目だって」
「………もしかして…」
「うん。今日の病院で、健康診断の結果を聞きに行って、産婦人科を紹介してもらって」
行ってきた、と告げる彼女の手には、どこからか取り出された産婦人科の診察券。
「ちょっと待って!健康診断って…レントゲン撮ってなかった!?」
ハッと我に返り、一番にそこに気付くあたり、流石は翼と言うべきだろうか。
そんな彼に、彼女はニコニコと笑顔を浮かべたままだ。
「大丈夫よ。私もそこは心配だったから…ちゃんと確認してきたから」
影響ないって。
その返事にほっと安堵する翼。
それから、抱き上げたままの彼女の頬にキスをする。
「まず…ありがとう。これから大変だと思うけど…俺も頑張るよ」
「うん、私も…ありがとう」
二人で額を寄せ合い、笑顔を交わす。
幸せをありがとうと、言葉にするまでもなく、心に伝わった。
日本語で進んでいた会話は、チームメイトには理解できていなかった。
一頻幸せを分かち合った後、翼が「子供が出来た」と告げると、彼らは大いに沸く。
まだ若いはずの監督は、まるで初孫を喜ぶ爺のように、翼に対して午後からの休暇を与えた。
どういう広がり方をしたのかはわからないけれど、驚くべき速度で広がっていく情報。
夕方には近くのクラブチームの仲間からも祝いのメールが届いた。
「またメール」
「こっちも結構届いてるよー。翼、友達多いね」
「半分以上は紅と共有だと思うけど?」
色々なチームに出向く紅は顔が広い。
彼女を通して知り合ったメンバーも少なくはないのだ。
「って言うか、安定期はまだまだ遠いから、あんまり広げない方が良いと思うんだけど…」
「もう遅い」
「…みたいね」
人の口に戸は立てられないと言うけれど、正しくそんな状況だ。
紅は小さく苦笑し、お願いだから元気に育ってね、と心の中で語りかけ、そっと下腹部を撫でる。
そんな彼女の行動に気付いた翼が、携帯を片手にソファーに座っている彼女の隣へと腰を下ろした。
「暁斗には?」
「まだなの。翼に伝えてから、その次………と思ってたんだけど」
次、どころか、何番目か数えるのも難しそうだ。
落ち込むかな…と考えて、大丈夫だろうと思い直す。
暁斗の所は、一人目が今年で3歳になる。
どちらの血なのか大変なやんちゃ振りで、日々が慌ただしく過ぎていると言っていたのを思い出した。
ちなみに紅の両親にはもう既に伝えており、明日行くわね、と素早い対応の約束が出来ている。
「とりあえず、母さんには教えるけど…」
「うん、もちろん。お願いしていい?」
いいよね、と確認するまでもない。
幼い頃から本当の母子のような関係だったので、嫁姑関係は大変良好だ。
教えなくて責められるのは、紅ではなく翼だと言う事はまず間違いない。
壁にかかっている日本時間を示した時計を見上げてから、電話をかける。
「あ、母さん?うん、久し振り―――ごめんって」
恐らくは連絡が少ないとでも言われているのだろう。
電話越しの会話がありありと想像できてしまい、声を殺して笑う紅。
「あのさ、紅が妊娠した。………冗談じゃなくて…うん、6週目だっけ?」
確認するように視線を投げられた紅は、肯定するように二・三度頷く。
「その辺はまだ話してないから…大丈夫。ちゃんと紅と話し合うって」
それから少し話した翼は、繋がったままの携帯を紅に差し出した。
何、と問うまでもなく、それを耳に添える。
電話越しの声は祝いと、これからについての心配と、励ましと。
とにかく、あたたかい心がたくさん詰まった言葉だ。
実の両親が喜んでくれるのは、ある意味では当然の事だ。
しかし、翼の母が喜んでくれるのは―――紅を認めてくれているからに他ならない。
その心が、とても嬉しかった。
電話の途中だと言うのに感極まってしまって、言葉を詰まらせる紅。
案じるような声が聞こえているのに、答えることが出来ない。
せめて、声が漏れないようにと手を口元にやったところで、携帯が翼の手に奪われた。
「今から色々話し合わなきゃいけないから切るよ…え?あぁ…大丈夫だって。ちょっと感極まっただけ」
答えられない紅に代わって電話を終わらせると、翼は携帯を向かい側のソファーに放り投げる。
そして、ひょいと彼女の身体を抱き上げて膝の上に乗せ、抱きしめた。
安心させるように、落ち着かせるように。
強くない優しい抱擁に、涙は自然と止まっていった。
「…何か、不思議なの。幸せすぎて…よくわからないんだけど」
何もない時に聞いたならば、きっと“嬉しい”と感じるだけ。
もちろん、涙が出てしまう程の嬉しさではない。
だからこそ、自分の感情が不思議だった。
「俺も不思議…かな。これ以上、上なんてないと思ってたけど…嬉しいし、幸せだと思うし…愛してる」
「………っもう!私を泣かせて楽しいの…?」
「はいはい。泣かせるのも止めるのも俺の仕事なんだからいいでしょ」
そうして、溢れた涙を隠すように、彼の胸元へと額を預けた。
Request [ 七周年企画|華さん|翼への妊娠報告の話 ]
11.06.30