勘違いと喧嘩と仲直り

まぁ落ち着きなよ、と伸びてきた翼の手が頭を撫でる。
いつもなら、その行動だけで『仕方ないなぁ』と思えるのだけれど。
今回ばかりは、それで納得して溜まるか、とその手を振り払った。





「翼の馬鹿ァ―――ッ!!!」

そんな怒号にも似た叫び声と共に、紅が部屋を飛び出していく。
紅、と呼び止めたことすら、彼女は気付いていないだろう。
振り払われた手は不自然に宙を掻いていて、それが酷く空しい。

「…翼。何か、紅の叫び声が聞こえたんだが…大丈夫か?」

大丈夫と言う質問自体も少しおかしいかもしれないけれど。
遠慮しつつもリビングに顔を出した暁斗に、翼は肩を竦めた。
ちなみに、我が物顔でソファーに腰掛けているけれど、ここは雪耶家である。

「特に実害はないよ」
「そうか。…何しでかしたんだ?」

紅があんな風に飛び出していくなんて、そうそうある事ではない。
暁斗の問いかけに、翼はふぅ、と溜め息を吐き出した。

「色々と重なった所為だよ」

気にしているのかいないのか。
微妙な様子で雑誌を捲る翼。
彼をよく知らない人間ならば、わからなかっただろう。
しかし、暁斗はそれこそ翼が生まれてからずっと付き合いが続いている人間だ。
その微妙な変化を見落とさず、溜め息を吐き出した。

「…気になるなら追いかければいいだろ」
「………頭に血が上ってるからね。今行っても、無駄足」

確かにそうだとしても。
心ここにあらず、と言った様子で意識は二階へと向けられている翼に、苦笑を隠せない。
たとえ無駄足だとしても、意識が先に向かってしまっているなら、いっそ行動に移せばいいものを。
意地っ張りだな、と思いながら、暁斗は何か飲もうとキッチンへと向かう。
そこで、シンクの中に残っていたものに気付いた。

「…これが原因か?」
「原因の一つ、って言ってくれる」

落としてしまったのか、割れたマグカップ。
前に、紅がどこかで購入してきて自分専用だと宣言したもの。
あれから数年―――とても大切に使われていたものが、真っ二つに割れている。
修復が困難である事は明らかだ。

「え、もしかして、割ったの翼?」
「そんなわけないじゃん。話してる最中に落として割ったの」
「ふぅん…これを落とすほど衝撃的な事を言ったのか」

なるほど、と状況を掴み始めている暁斗。
今日と言う日、紅の行動、割れたマグカップ、彼女にとって衝撃的な話。
それらを思うように組み合わせた暁斗は、一つの仮説に辿り着いた。
そして、何となく…それが間違いではない事を確信する。

「明日、何か予定入れたのか」

問いかけですらない言葉に、翼の肩が大きく揺れた。
何でもありませんとばかりに雑誌に視線を落としている彼だが、進まないページがその心境を表している。

「…入れてない」
「じゃあ、紅は何を誤解したんだ?」

次から次へと―――翼は、暁斗の勘の良さが恐ろしく思えた。
流石と言うか何と言うか、彼の洞察力は鋭い。
この若さで大人の世界を対等に渡り歩いているだけの事はある。
翼は、暁斗の言葉には答えず、漸く雑誌を手放した。
リビングを出ようとする彼を、どこに行くんだ、と暁斗の声が追う。

―――いつまでも泣かせてられないし。

小さな返事が、全てだったのだろう。
当事者たちが消えたリビングで、暁斗はククッと笑い声を噛み殺した。

「ま、この程度は可愛らしい衝突だな」

冷蔵庫から取り出したペットボトルを片手に、翼が座っていたソファーに腰掛ける。














硬く閉ざされた部屋のドアをノックして、紅、と呼びかける。
返事はなかったけれど、中で動く気配がした。
入るよ、と声をかけて部屋のドアを開く。
ベッドに腰掛けていた彼女は、拒んでも無駄だと理解しているのか、部屋に入ってきた翼を無言で睨み付けた。

「話、あるんだけど」

パタン、と閉ざしたドアに背中を向けて歩きながら、翼はそう声を発した。
すぐ近くに来るまでは彼を睨み付けていた紅だが、翼が立ち止まるとスッと視線を逸らす。
暫く紅の横顔を見つめていた翼は、ゆっくりと手を伸ばした。
ぽすんと彼女の頭の上に手を置き、手の平で艶やかな髪を撫でる。
今度は振り払われなかった。

「あのマグカップが割れた事は別として…明日の件は勘違いだからね」
「…どこが」

一応、聞く耳は持っているらしい。
少し腫れた目元が痛々しく見えたけれど、あえて言及はしない。
ゆっくりとしたペースで彼女の髪を撫でながら、翼は静かに説明を始める。

「明日、確かに出掛ける予定があるって言ったけど…あくまで、予定だから」
「…予定を入れたことに変わりはないんでしょう?」

同じじゃない、と呟く言葉にはいくらかの棘が含まれていた。
そんな彼女に苦笑を返しつつ、だから、と続ける翼。

「相手が頷けば、予定通り」
「……………」
「明日、出掛けない?」

腰をかがめて目線を合わせ、誘いをかける彼。
目を合わせないことに必死だった紅は、ぱちぱち、と瞬きをした。

「…私、と?」
「俺の前に、他に誰かいる?」

明日と言う、紅にとっては大事な日に、約束をすっぽかして出掛ける相手。
不本意ながらも嫉妬したその相手は、自分だったらしい。

「…どこに行くの?」
「一緒に行き先を決める予定だった。けど…行き先は、決まってるね」

意味がわからない、といった様子の紅に、翼はニッと口角を持ち上げた。

「雑貨屋。新しいマグカップを探しに行かないと」

そうでしょ、と得意げに笑う彼。
明日の約束をすっぽかして別の約束を作ってきた。
その上、それを聞いた所為でお気に入りのマグカップを落として割ってしまった。
嫌な事が二重で襲い掛かってきた所為で、怒っていた筈の自分。
それなのに…この数分間の間に、原因の一つをすっかり忘れてしまっていた。

「…買ってくれるの?」
「うん、いいよ。あれだけ大事にしてもらえるなら、贈り甲斐もあるし―――泣かせた、お詫びって事で」

そう言って彼の指が紅の目元をなぞる。
先ほどまで涙が零れていたのか、軽く水気を含んだ睫。
強く瞬きをした所で、最後の一粒が目元から滑り落ちてくる。

「―――で?勘違いした紅から俺に言う事は?」
「ぅ…」
「“馬鹿”だっけ。デートに誘おうとした、俺に向かって」

にっこりと微笑む翼の笑顔には見覚えがある。
笑顔で怒っている時のそれだと理解すると同時に、ごめんなさい、が口から零れ落ちていた。
長年の付き合いは、その笑顔の怖さを骨の髄まで刻み込んでいたようだ。

「明日、行くよね?」
「…うん」
「…ま、俺も…泣かせて、ごめん」

優しく目元をなぞられ、紅は静かに目を伏せた。
ちゅ、と言う小さな音と共に、唇に感じたぬくもり。
互いの額を合わせたまま目を開けば、近すぎる距離に彼がいる。

「…翼」
「ん?」
「勝手に怒ってごめん。それと、ありがとう」
「…うん。付き合って一年目を、喧嘩して過ごすなんて冗談じゃないしね」

良かったよ、と笑う彼に釣られるようにして、自然と笑顔が零れて来た。

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09.07.03