Travelers
--- 旅行者達

首を傾げなければならないメールが届いた。

―――9時半には寝ておいてね。

いくら本文を見つめても、それ以上の文字が浮かんでくることはない。

「9時半って…午前じゃないわよねぇ…」

小学生じゃあるまいし、と思う。
今時、小学生でもそんなに早く就寝していないだろう。
先日二度目の高校生活を卒業した紅に、その時間の就寝は難しい。
そう思いつつも、脳内の一部では、自然と指定された時間にベッドに入れるよう計画を立てている。
今日は期限の迫っている仕事もないし、問題はないだろう。
つくづく従順だな、とは思う。
これに関しては、上司部下の関係がはっきりしているマフィアと言うものに所属しているから仕方がない。
尤も、キャバッローネの場合は、その距離が限りなくゼロに近いのだが。
パチンと携帯を閉じてから、紅は畳んだバスタオルを片腕に持って浴室へと歩いた。



信じられないことに、次に携帯が鳴ったのは3時。
もちろん、午後3時ではなく、午前3時…真夜中だ。
迷惑メールだろうと思い込んだ紅は、布団から手だけを伸ばして、音の半ばで適当なボタンを押す。
プツリと音が途切れ、再び静寂が訪れた。
しかし、数秒後に再び鳴り出す携帯。
数十秒耐えても鳴り止まないそれに、紅の方が折れた。











「どう言うつもりなの」

マンションの入り口のところで雲雀を迎えた紅は、開口一番口を尖らせてそう言った。
返事の代わりに、はい、とヘルメットを手渡される。
疑問符を浮かべ動けずにいると、やや乱暴にヘルメットを奪われた。
ボスン、とそれを頭にかぶせられる。

「捕まらないと落としていくよ」

バイクに跨った彼にそう言われて、半ば条件反射でその後ろに乗る。
少し躊躇いつつも彼の腰に腕を回したところで、マフラーがブォンと激しく鳴いた。
いきなり結構な速度で走りだしたバイクに、紅は脳内の疑問符を積み重ねる。

「…何事…?」

よくわからないけれど、とりあえずどこかに連れて行こうとしていることだけは確かだった。
夜道を走るバイクの音は、次第に街中を外れていく。
どこに向かっているのか皆目検討が付かないけれど、目的地に着けば理由もわかるのだろう。
フルフェイスのヘルメットの中で、紅はふぁ、と軽くあくびをした。
今は、寝てしまわないように、とだけ考えることにしよう。
意識をそちらに向け、視線は近づいてきては遠のいていく電灯の光を追う。
夜道はまだ、闇に包まれていた。











ふわりと鼻腔を刺激するそれに、紅は何となく目的地がわかってきていた。
同時に、思わず笑いたくなるような、くすぐったい感情がほんのりと心に灯る。

「寝ないでよ」
「寝ないわよ」

小さい声なのに聞こえたのは、耳が必死になって声を拾おうとしていたからだろうか。
それとも、速度が落ちてきているからだろうか。
風に乗って届いてくる潮の香に、昼も夜もない。
やがて、世界が薄暗いと表現できる程度になってきた頃、バイクは堤防でキキッと動きを止めた。
彼が先におりる事はないとわかっているから、紅が先に地面へと下り立つ。
前のドライバーが先におりてしまうと、バイクを安定させるのが少し面倒になる。
こういう、見えにくい小さな優しさは彼らしいと思う。

「暑かった」

ぷは、とフルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てる。
少しくたびれた髪が頬へとへばりつき、不快感をもたらす。
邪魔にならないようにと耳の後ろに引っ掛けると、すでに歩き出している雲雀の隣に並んだ。

「覚えてくれていたのね」
「記憶力は悪くないよ」
「ええ、そうね。でも…興味がなさそうだったから、忘れていると思っていたわ」

堤防の向こうには波消しブロックが積まれている。
それに打ち寄せる波の音が鼓膜を震わせた。
徐々に明るくなってきている水平線を見つめる。

―――水平線からの日の出が見たい。

そう言ったのは、もう何年も前の話だ。
自分でも、彼にそれを告げた事すら、今この場に立つまでは忘れていた。
それなのに、彼はちゃんと覚えてくれていたらしい。
それが嬉しくて、紅は学ランを止めた彼の腕に自身のそれを絡めた。

「…暑いよ」
「長袖を着ている人の台詞じゃないわ」

ふふっと笑い声を零せば、彼はそれ以上何も言わず、好きにさせてくれる。
暑いと言ったって、本当に邪魔ならば振りほどくのが彼。
大人しくしてくれている以上、この腕を離す理由はない。
中学生の頃よりは大人びた顔立ちを見上げる。
幼さが抜け始めた彼は、格好良いと言うには十分な『男』へと変わりつつあった。

「僕よりもあっちを見てなよ。折角連れて来たんだから」

そう言って、紅の顎を持って無理やり海の方へと顔を動かす。
この辺りの強引さは全然変わっていないな、と思った。
しかし、それは口に出さず、大人しく彼に従う。
今にも顔を覗かせそうなそれは、言葉を失うほどに美しかった。









日の出を見た後はそのまま帰るのかと思いきや、雲雀はバイクを旅館へと向けた。
とても雰囲気の良いそこは、玄関を入るなり綺麗に着物を着付けた仲居たちによって出迎えられる。

「雲雀?ここは…」
「あの数分のために何時間も走ってきて、そのまま帰るなんて冗談じゃないよ」

いつの間にか部屋に通されていた紅は、彼の言葉にこめかみを押さえた。
今に始まったことではないけれど…何の用意も無く部屋に通された自分はどうするべきなのか。
そんな事を考えていると、失礼します、という声が襖の向こうから聞こえた。
窓際の椅子から立ち上がる様子の無い彼に、仕方なく紅が動く。

「ご連絡いただいておりました、お召し物一式をお持ちいたしました」

笑顔の良い仲居がそう声をかけつつ、品の良い風呂敷に包まれたそれを置いていく。
引き止める暇すらない行動の早さに、珍しくも立ち尽くす紅。
とりあえず、その風呂敷を開いてみれば、女物の浴衣が姿を見せる。

「ここは露天風呂が有名らしいよ」

そう言われてしまえば、風呂好きとしてはなんとしてもその露天風呂を拝んでみたくなる。
少し浮き足立った彼女に、雲雀は口元に笑みを浮かべた。

「のぼせずに出てきなよ。今日は祭りらしいからね」
「ありがと!」

思わず声を大きくしてそう言うと、紅はそのまま部屋を出て行こうとする。
そんな彼女の背中に、再び彼の声がかかった。
何だろう、と思って振り向いた彼女の視界で、こちらに向かってくる何か。
思わず受け止めたそれは、音だけで小銭入れであることがわかった。

「風呂にコインランドリーがあるらしいから」

今着ている服を洗っておけ、と言う事なのだろう。
浴衣ではバイクの後ろには乗りにくいので、ありがたく使わせてもらうことにする。
もう一度お礼を言ってから、紅はご機嫌に部屋を後にした。
わけがわからないままに突然連れて来られた事など、脳内からすっかりと抜け落ちてしまっている。


露天風呂の後は祭りを楽しんだ。
そして、夕方に旅館へと戻った二人は、泊まることなく手続きだけを済ませて帰路へと付く。
後日、宅急便で届いた浴衣一式に、口元を緩めた紅がいたことを知るのは、彼女自身だけだ。

Request [ 四周年企画|時雨菊花様 ]
08.07.04