Medicine
--- 薬
あぁ、体調が悪いなぁとは思っていた。
けれど、体調が優れないという程度で床に伏せることなど出来ない。
常備薬として鏡台の引き出しに入れていた頭痛薬を水で流し込み、紅はふぅ、と息を吐き出した。
「今日は…一番から六番隊の訓練と、仕上がり状況のチェックと…あぁ、城下町にも行かないと」
のろのろと今日の予定を思い浮かべる。
いつもならば口に出す必要はないのだが、今日は声に出さなければ整理が出来そうになかった。
「…問題は…いかにして気付かれないか、よね」
どうやって、政宗の目を潜り抜けるか。
「紅様~!!一番隊、三番隊、五番隊、準備整いました!」
「二、四、六番隊も同じく!ご指導よろしくお願いします!」
道場から呼びに来てくれたのだろう。
胴着と袴に身を包み、高い位置で髪を結い上げた紅は、その言葉に振り向いた。
「行きましょうか」
そう言って、歩き出す部下たちに続いた。
道場までの道すがら、紅は青過ぎる空を仰ぐ。
「…いい天気」
風が、優しく頬を撫でた。
名前を呼ばれた気がして、紅の意識がふわりと浮上した。
―――熱い。
どこが、というわけではない。
全身が熱さを訴えているような気がして、紅は空気を求めるように唇を薄く開いた。
吐き出した吐息は熱を含んでいる。
―――紅。
ふと、また名前を呼ばれた気がして、重い瞼を押し開く。
「―――気がついたか?」
声と同時に、額に冷たい何かが乗せられた。
視界に入ってきたのは、先ほど自分の名前を呼んでくれた声の主。
それが政宗であると気付いたのは、彼が紅の頬を撫でてからだった。
「まさ…ね…さま?」
予想以上に掠れた声は、思うように言葉を紡いでくれなかった。
そうして名前を呼べば、彼の表情に安堵が浮かんだ。
しかし、その眉間の皺は消えることなくそこに刻み込まれている。
「覚えてるか?」
「?」
「訓練中に倒れたんだぞ、お前」
そう言うと、彼の姿が視界から消えた。
どこに、とそれを追うべく顔を動かしたところで、頬にひんやりとしたものを押し当てられる。
それが濡らした手拭いだと気付いたのは、彼の手が見えたからだ。
「あの…」
「熱が出てる。大人しくしてろ」
熱の所為で火照った頬を冷ますために、手拭いを絞ってくれたらしい。
彼にこんなことをさせてはいけないと思うのに、心がそれを喜んでしまっている。
軽く瞼を閉じて顔を拭ってもらう感覚に身を任せつつ、倒れる前のことを思い出した。
何人目かの部下を前にした頃、息が上がっていたのは疲れからではなかったのだ。
足元もぐらぐらしていたし、それは彼女自身もわかっていた。
けれど、今日を逃せばいつになるかわからない予定を、自分の不調のために延期することは出来ない。
声と共に打ち込んできた部下の攻撃を往なして胴へと木刀を打ち込み、息の塊を吐く。
「―――次!」
そう言って振り向いた時、ぐらりと視界が揺れた。
あ、まずい。
そう理解した時には、すでに視界の大部分が黒く塗りつぶされていた。
平衡感覚を失う身体が倒れ始め、最後に見えたのは、驚いたように目を見開く政宗だった。
「…ごめんなさい…」
状況を思い出した紅は、小さく謝罪の言葉を述べる。
彼は何も言わず、ただ溜め息を吐き出した。
「無茶すんな。…心臓が止まるかと思った」
こつん、と額を弾かれる。
全く痛みを伝えてこないそれに、紅は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「風邪、ですか?」
「らしいな。そんなに酷くはないらしいから、大人しくしてりゃすぐに治るんだとよ」
大人しく、という部分を殊更に強調し、そう告げる。
紅は、はは…と小さく乾いた笑い声を零した。
大人しくしていなくて倒れた身としては、何も言えないのだろう。
「…熱で喉が渇くんだろ。水、いるか?」
そう問いかけられると、紅は小さく頭を動かして頷いた。
それから、彼が行動を起こす前に口を開く。
「自分で…飲めますから」
「…身体を起こすのは辛くないか?」
「大…丈夫」
起こそうと力をこめるとズキンと節々が痛むのだが、そうは言っていられない。
何故紅がそれを拒むのかを理解した政宗は、起きようとする彼女の背中を支えた。
無理に唇を合わせて水を飲ませてやることは出来る。
しかし、そんな事をすれば、彼女は発熱している身体でも、抵抗を見せるだろう。
胡坐をかいた膝の上に横抱きにするようにして、腕で背中を支える。
何か言いたげな視線を見せたけれど、身体が辛いのか抵抗はしなかった。
薄く開かれ、熱を帯びた息を吐き出す唇に、水の入った湯飲みを触れさせる。
湯飲みを傾ければ、まだ冷たい水が熱い口内に滑り込んだ。
こくん、と喉が動く。
「…辛いか?」
湯飲みを置くと、紅は力を使い果たしたかのように政宗に凭れかかった。
ゆるゆると首を横に振って答えてくれているが、とてもではないが辛くないようには見えない。
「…大丈夫、ですから…政宗様もお下がりください」
喉が潤ったお蔭か、聞き取りやすい声で彼女がそう言った。
政宗は何も答えず、人の体温に触れているよりは楽だろうと、彼女を布団に戻してやる。
改めて濡らした手拭いを彼女の額に乗せてから、彼は一歩引いたところに座り込んだ。
「俺が勝手にやってることだ。気にすんな」
「…駄目です。風邪が…うつると大変ですから」
これだけの時間傍にいて、今更とは思う。
しかし、彼女の気遣いは素直に嬉しかった。
彼女の頭を撫でながら、政宗は静かに口を開く。
「お前が寝るまでの間だけだ」
言い聞かせるような優しい声色の言葉に、紅は瞼を伏せた。
これ以上何を言っても、彼は動かないだろう。
それに…自分も、傍にいてほしいと思っていた。
風邪の時というのは心までも病んでしまうのか、人肌が恋しくなる。
だからこそ、ずっと傍にいてくれる政宗に感謝した。
「…眠るまで…ですからね」
駄目だとわかっていても、そこで妥協してしまう。
念を押すような彼女に、政宗は苦笑交じりに頷いた。
それを気配で感じ取り、彼女の意識は深いところへと沈んでいく。
「筆頭。薬を持ってきたんだが…寝てるのか」
「いや、さっきまで起きてた」
「ふーん…さて、どうするかな…」
小瓶に入ったそれを見下ろし、思案する氷景。
さっきまで起きていたならばまだ眠りは浅いだろう。
飲ませられないことはないのだが、さてどうするか。
「貸せ」
薬を受け取り、水と共に口に含む。
そして、彼女の首の下に腕を差し込んで軽く頭を持ち上げ、迷いなく紅の口にそれを流し込んだ。
身体が辛いのか、彼女は起きてくる素振りを見せない。
「…姫さん、怒るぞ?」
「お前が口を滑らせなきゃいいだけの話だな」
ニッと口角を持ち上げる政宗に、氷景は軽く肩を竦める。
了解、筆頭。
彼の声は、政宗の耳に届いただろうか。
Request [ 四周年企画|ゆりか様 ]
08.06.29