ずっと明日が来なければ

くしゅん、と控えめなくしゃみが耳に届く。
この部屋の中に居る人物といえば酷く限られていた。
そんな中、くしゃみをしたのが自分ではないとすれば、もう一人しか考えられない。
紅は夥しい量の書類を整理していた手を休め、ちらりと視線を上げた。

「風邪ですか?」

先ほどのくしゃみの名残も見せていない雲雀に向けてそう問いかける。
彼はくるりと鉛筆を回していた手を止めて彼女へと視線を返した。

「…別に」

返事の声はいつものようにハキハキとはしておらず、どこか元気がない。
その掠れ具合からしても、どこかしら体調を崩していることは明白だった。
それでも、あえてそれを隠そうとする強気な彼に、紅はやれやれと肩をすくめる。
手に持っていたファイルをさっさと壁に沿って置かれている棚へと押し込むと、自分の鞄の方へと歩いた。
鞄の内ポケットに入れてあった薬ケースを取り出し、十数種類ある薬を見下す。

「喉は痛みますか?」
「別に」
「熱は?」
「普通」

本心で答えているのかは微妙なところなのだから、見た目で判断するしかない。
額に触れて熱を測るという手もあるが、そうするとトンファーが返って来そうだ。
彼にその元気があれば、の話だが。
まぁ、こうして問題なく過ごしているところを見ると、まだ引き始めたばかりなのだろう。
そう予測を立てた彼女は、二種類の薬を指先で拾い上げた。
ぱちんと薬ケースを閉じて鞄の中に戻すと、彼女は雲雀の方へと歩いていく。
そして、無言のままに彼の手を取って、その上に薬を乗せた。

「酷くなった方がいいなら、飲まなくても構いません」

要するに、早く治したければ飲め、と言うことだ。
雲雀は掌に乗せられたそれと紅とを交互に見る。
それから、ふぅと溜め息を吐き出した。
そんな彼の反応を見て、紅は応接室の隣にある給湯室へと歩き、冷蔵庫からお茶を取り出して戻る。
本当は薬というものは水で飲む方がいいのだが、あいにくここの水は生で飲むことに適していない。
コトン、と缶ジュースのそれを彼の前に置いて、さっさと自分の作業へと戻っていった。
自分が見ていた所で、飲む時は飲むし、飲まない時は飲まないのだ。
いつまでも付き合っているよりは、早く自分の作業を終わらせて彼を手伝った方がいいはず。
カシュッと缶ジュースの蓋を開ける音が聞こえたから、どうやら飲む事にしたようだ。
あそこまでして飲まないほどに、彼は変な方向にプライドを高く積み上げているわけではない。
風邪を悪化させて醜態を晒すよりも、紅の言い分に従ったほうが得策と判断したらしい。

「今日は呼び出しがあっても行かないで下さいね。その薬は安静にしていることが第一ですから」

顔を上げずにそう告げるが、返事はない。
いつもの事なので特に気にすることなく、紅は作業を進めた。



『―――風紀委員雪耶、すぐに職員室まで来なさ…来てください』

ピンポンパンポン、と言う気の抜ける音の後、そんな校内放送が流れる。
一瞬自分だと認識するのに時間が掛かってしまったが、すぐに気づいて作業の手を止める。
それから、ちらりと雲雀の方を見た彼女は思わず口をぽかんと開けた。

「…ね、寝てる…」

珍しい、と思ったけれど、起こさないように心中だけに止めた。
デスクに寄りかかるようにして腕を枕に肩を上下させている彼に、音もなく近寄っていく紅。
風邪の引き始めと言うのは何だか気だるくなるものだが、彼がこんな風に転寝するとは思わなかった。
確かに、彼が寝ている姿を見ることはないとは言わない。
応接室に来てみればソファーに横になっていたり…と言うことは、時々あることだ。
しかし、寝ようという姿勢ではなく、不可抗力のように転寝をしてしまった姿を見るのは初めてのこと。
貴重な経験だ、なんて密かに喜んでから、自身の学ランを脱いで彼の肩にかける。
冷房が効きすぎているわけでもなさそうだから、これで十分だろう。
もう一度彼を見下ろしてから、その口元に笑みを浮かべつつ応接室を後にする。












職員室で過ごすこと20分。
のんびりと応接室へと足を進めていた紅は、不意にポケットの携帯がバイブしたのに気づく。
取り出してみればどうやらディーノからの着信らしい。
この時間は学校に居ることが分かっているから、あまり電話をかけてくることはない。
急用か?と思いつつ、携帯を操作して耳へと運んだ。

「はい?」
『紅か?』
「うん、そう。何かあったの?」
『実は、今本部から連絡があって―――』

機械越しに告げられた内容に、紅は大きく目を見開くこととなった。
そして、携帯をポケットにしまうことすら忘れて廊下を走る。
階段を駆け上がって、廊下を曲がって。
ばんっと勢いよく応接室の扉を開いた時には、かなり息が上がっている状態だった。

「雲雀さん!?」
「うるさい」

まず一番に目に入るであろう位置にあるデスクはもぬけの殻。
思わず声を上げた紅のそれに、即座に返事が聞こえた。
声の聞こえた方へと視線を向けるが、誰も居ない。

「…あれ?」
「した」

気のせい?と思ったところで、再び声がした。
した、と言われて、それが「下」を意味する単語なのだと理解するのに2秒ほど掛かる。
即座に理解できないわけは、下を向けば分かった。
目線を自分の腰ほどの高さに落としたところに、声の主はいた。
しゃがんでいる訳ではなく、身長がその高さまでしかないのだ。
言葉の調子で分かるように、声の主は言うまでもなく雲雀本人。
しかし、そこに居るのは小学校1年生程度の少年だ。
その目付きの鋭さや、不自然に縮んだ学ランが、彼が雲雀だと言う名残を残している。

「………えっと…風邪の方はもう治ったみたいですね」

言うことが違うだろう、とは思ったけれど、やや混乱した頭は勝手にそんなことを言ってしまった。
どこか呆れた風な表情を見せる彼に、口元を引きつらせる。

「むしろ、からだにべつのいじょうがでたけどね」
「はは…そのようで」
「げんいんはひとつしかおもいあたらないんだけど?」

どこか舌足らずな口調の所為で、脳内の漢字変換機能が正常に動かない。
全部がひらがなに聞こえるなぁ、と思いつつ、紅はその場に膝をついた。
それでもまだ彼女の方がやや身長が高い。

「さっき、ディーノから連絡があって…どうやら、本部でも似たような症状が出てしまった人が居るようです」
「…そんなあぶないくすりをのませたの?」
「いえ、今までにこんな事例はなかったもので。聞いた状況から察するに、原因は服用後の激しい運動のようなのですが…」

身に覚えは?と尋ねれば、彼の視線がすっと逃げる。
どうやら、覚えがあるらしい。
安静第一だと言ってあったのだから、勝手に動き回ったのならば、その時点で紅の責任はないようにも思える。
しかし、だからと言ってこんな状態の彼を放っておくような人間ではない。

「呼び出しがあったんですか?」
「……そこでうるさくしてたやつらをけちらしただけだよ」
「そこって…」

彼の小さな手が指した先は、窓だ。
すっと立ち上がった紅は彼の指した窓へと歩いていき、ガラスを開ける。
そこから顔を覗かせれば…確かに、その名残はあった。
窓から飛び降りたのか、はたまた別の道を使ったのか…それを聞く必要はないだろう。
重要なのは、彼が激しく動いた、と言う事実だけだ。

「雲雀さん。一応、自業自得ですよね。この場合は」
「こんなことになるなんてきいてない」
「まぁ、確かに…その点に関しては謝ります。でも、安静にしていなかった雲雀さんにも問題は―――」

ある、と言い終える前に、視界の端を鉛色のそれが掠める。
だが、普段のスピードからすれば蝿が止まるほど遅い。
難なくトンファーを受け止められたことに対し、彼は小さく舌を打った。

「脳内以外は幼児化しているようですからね。当然ながら、筋肉も衰えていますよ」
「めいわくなはなしだね」
「私にとってはありがたいですけれど」

そう答えればもう一度トンファーが飛んでくる。
それも問題なく受け止め、ついでに彼の手から両方とも奪い取っておいた。
元に戻ってからがどうなるのか、想像すると恐ろしいけれど、今は大人しくしておいてもらわないと。
不満ありげに見上げる彼に苦笑を返し、トンファーを鞄の中に入れた。

「元に戻るのは大体半日後だそうです。半分は私の責任ですから…お世話くらいはさせてもらいますよ」

そう言って笑うと、紅は携帯を取り出して暁斗へと電話をかける。
数コールで彼の声が聞こえ、迎えに来てくれないかと頼んだ。
理由を聞くでもなく二つ返事で了承を得ると、電話を切って部屋の戸締りを行う。
その間、雲雀は手持ち無沙汰にソファーに座っていた。

「(雲雀さんの子供時代……あんなに可愛かったんだ…)」

本人に言えば、きっと無事ではすまない。
分かっているからこそ心の中に止めておいた。
帰り支度を整えたところで携帯が一度ブルルと震える。
どうやら、暁斗が到着したようだ。

「さて…帰りましょうか」
「どこに」
「私のマンションですよ。こんな所で誰かに見つかっても困るでしょう?」

ほら、と促すように手を差し出せば、彼はふいっと顔を逸らしてソファーから降りる。
そんな彼の行動を見てから、思わず苦笑を浮かべてしまった。
見た目が子供なので、自然と子供扱いしてしまっていたようだ。

「裏に車を回してくれるよう頼みましたから、そっちに行きましょう」

今度は彼に手を差し出す事無く、当然のことのように歩き出す。
傍から見るとどんな風に見えるんだろうか、と思いながらも、紅は倍以上の時間をかけて裏門までの道のりを進んだ。






「…紅。何だ、この生意気そうなガキは」
「雲雀さん本人」

短く答えて車に乗り込んでくる彼女に、暁斗は目を丸くして少年を凝視する。
そんな視線が鬱陶しいのか、少年には不似合いな皺が眉間に居座っていた。

「あんまり凝視しないの。明日には戻るわ――――多分」
「で、こいつはどこに送り届ければいいんだ?」
「うち」
「………却下」
「それを却下するわ。他にいい案は浮かばないもの」

嫌なら一晩出て行って、冷たくもあっさりとそう言ってしまう娘に、暁斗は熱くなる目元を押さえた。
そんな彼から視線を逸らして、紅は隣に座る雲雀を見る。
今はとりあえず自分に敵うほどの筋力がないから大人しくしてくれている。
だが、元の姿に戻ったら―――そう思うと、少しだけ背筋が寒くなってしまった。





「面白い薬をありがとう」
「…どうも。って言うか、何で私の部屋に居るんですか。暁斗が見たら絶叫しますよ」
「それもいいね。散々人のことを馬鹿にしてくれたし。腕が鳴るよ」
「…マンションが壊れると困るのでやめてください。―――風邪は…ちゃんと治ったみたいですね」
「あの薬のお蔭でね。どうでもいいけど、ボタン外れてるよ」
「……………っ!?!?気付いてたなら見ないでくださいよっ!!!」

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07.07.01