どこまでも変わらないこの関係
余計なものは何一つ置かれていない部屋の中、コウは只管真っ白な紙と睨めっこしていた。
いや、真っ白な、と言うのは少しばかり間違っているかもしれない。
正確に言うならば、数分前までは真っ白だった紙だ。
「うーん…ここは問題なくて…問題があるとすれば、この辺だと思うんだけどなぁ…」
ぶつぶつと何かを呟きつつ、万年筆を紙の上に滑らせる。
あまり良くない紙を使っているのか、時折ペン先が紙の繊維に引っかかって小さなシミを残した。
「やっぱり他の人の意見がないと捗らないわ…」
こんな時は、どうしても元の世界が恋しくなってしまう。
向こうに居た頃は、いつだって望んだ時に、同じ錬金術師からの意見を聞く事ができたのだ。
研究を進める上では、実に恵まれた環境だったと言える。
「決定的な部分が欠けてるのか、それとも材料の問題なのか…」
むむむ、と口を尖らせた所で、廊下から聞こえてくる足音に気付いた。
その荒さや大きさから言って、恐らくは彼に間違いないだろう。
「さて…第一声は怒鳴られるかな」
言葉だけを聞けば、嫌だなぁと言う風にも聞こえる。
しかし、コウの表情は寧ろその状況を楽しんでいるようだった。
ガチャリとドアノブが揺れ動き、次いで勢いよく開かれるそれ。
ぱち、と目が合ったと同時に、コウはにっこりと笑って見せた。
「やぁ、ユウ。お邪魔してます」
片手を上げての言葉に、今しがた部屋に入ってきた彼…神田は肩を振るわせた。
思いっきり息を吸い込むのが見た目にも分かり、コウは向けられるであろう怒号に備えて耳を押さえる。
だが、開いた唇が怒鳴り声を発する事はなく、二・三度歯軋りをするようにして、やがて閉ざされた。
どうやら、何とか飲み込んだらしい。
「…人の部屋で何してんだ、テメェ…」
「んー…意見が欲しいなって思って」
「…鍵…」
「あは!錬金術師の私の前に、鍵なんて無意味!」
ぐっと親指を立てた彼女に、彼は長く、そして深い溜め息を吐き出す。
彼のそれがいつものように歯切れの良い言葉ではないのは、怒鳴るのを何とか押さえ込んでいるからだろう。
何を我慢する事があるのだろうか、と思ったコウだけれど、自分にとっては良い事なので黙っておく。
「ったく…。これで何度目だ?」
「ごめん。数えてないや」
そう言って笑ってから、コウは「ちゃんと直してるんだからいいでしょ」と紡ぐ。
そう言う問題じゃない、とか、直すくらいなら変に作り変えるな、だとか。
色々と言いたい事はある。
それこそ、山のようにあるけれど―――神田は静かにそれらを飲み込んだ。
彼女に付き合って怒鳴り散らしていると、いつか喉が裂けるような気がする。
「ねぇ、神田。ここなんだけどさー」
「…言っとくが、錬金術なんざ興味ねぇからな」
「うん。知ってる。でね、ここなんだけど、何かしっくり来ないのよ。いい案ない?」
「………お前、人の話を聞いてたのか?」
「うん、ばっちり―――あ、ユウ。ゴミがついてる………よ!?」
床に座り込んで彼を見上げていたコウは、その時になって漸くその腰を上げる。
そして、やや不安定な体勢のままに、神田の肩についていたそれに手を伸ばす。
だが、バランスを保つ為に踏み出した足の下に、錬金術に関して書き連ねた紙が何枚も重ねて置かれていた。
それらが絶妙な摩擦により、彼女の体重を別の方向へと滑らせてしまう。
結果、コウは立ち上がりかけた姿勢のまま足元を滑らせた。
床に転がっただけならば神田に呆れられるだけで事は済んだだろう。
しかし、不運にも一度掴んだものを手放す事を拒んだ彼女の両手は、パンッとその糸くずを両手の中に挟む。
頭の片隅で、それくらいなら自分の姿勢を何とかしろよ、と思ったけれど、後の祭りだ。
「コウ!?」
咄嗟に神田が身体を捻って彼女を受け止めようとするも、やや遅い。
何とか彼女の腕を掴んだ所まではよかったが、自分まで引きずられる結果となってしまった。
派手な音と共に、その場を目が焼かれるような光が包み込む。
自分の上に乗っていた重さが消えた事に気づいた神田が目を開いた時には、部屋の中には彼一人しか居なかった。
「…ったく!あの馬鹿が…!!」
悪態をついた神田の声だけが、部屋の中に空しく響く。
「痛たたた…やっぱりあそこは間違ってたかー…」
ゴツン、と派手な音を響かせた頭を押さえつつ、身体を起こす。
起こす、と言う事は倒れていたのだろうなとおぼろげに考えながら、周囲を見回した。
先ほどの目を焼くような光が、錬成反応の時のそれである事には気付いている。
本来特に大きな反応を見せる筈ではなかった錬成陣が変に作用したのは、やはりどこかが狂っていたのだろう。
「……………ここ…?」
え?と首を傾げる。
見回したそこは、先ほどまで自分が居たのと全く同じ部屋。
床の上に散らかる構築式だらけの紙の山も、質素なベッドも、何も飾られていない家具も。
全てが同じで、ただ神田だけが居ない。
「………嘘。自分が巻き込まれたんじゃなくて、ユウを巻き込んじゃった…?」
数秒で導き出された答えに青くなるコウ。
自分がどうにかなってしまったのならば、自分の責任でどうとでも出来る。
だが、彼一人をどうにかしてしまったとなれば、話は大きく変わってくるではないか。
やや青褪めた表情のまま口元を引きつらせ、すぐさま床に散った紙を全て集める。
白いその上に走らせた自分の筆跡を隈なく追いながら、脳内で様々な構築式を作り上げていく。
しかし、そのどれもが彼女の望む結果へと辿り着いてくれず、焦りだけが膨らんだ。
最後の一枚を拾い上げようと伸ばした指先が、こつんと何かに触れる。
紙から目を離さなかったコウは、そこで初めて視線を動かした。
その目に映りこんだものを見て、彼女は眉を寄せる。
「………状況は最悪、ってね…」
はぁ、と溜め息を吐き出した彼女の耳に、部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。
面倒だけれど、神田に用がある誰かの足音ならば、状況を説明しなければならないだろう。
どうしようかな、と考えていたコウの耳に聞こえる足音はどんどん大きくなっていく。
そして、部屋の前で止まったかと思えば、ノックをするでもなく突然にドアを開いた。
何て非常識な、などと、鍵なしのドアに再構築して侵入した自身を棚に上げて、そんな事を思う。
それからドアの方を向いて―――そこに居る人物を前に、彼女は間抜けにも口をぽかんと開けた。
「…ユ、ウ…?」
そう呟くと同時に、幾度となくアクマを破壊する光景を目にしたそのイノセンスが自分へと突き出された。
咄嗟に指先に当たっていたそれを引き上げて自身の前へと運べば、ギィンと鈍い音が鼓膜を震わせる。
「テメェ、何者だ…」
低く、低く。
そう言ったのは、他でもない神田ユウその人だった。
「え、ちょ…ユウ!ストップ!!」
第一声の後は、猛攻撃と言っても過言ではない攻めを食らう。
さすがのコウも、武器やアズなしに彼と対峙するのは不可能に近い。
身を翻して窓の方へと走り、追って来た彼の一撃をスレスレのところで避け、そのまま廊下へと飛び出す。
もちろん、手にしたそれと共に。
「って言うか、何で神田のイノセンスが二つ…?」
追って来る足音を聞きながら、コウはそう呟いた。
彼女の手の中にあるのは、見慣れた彼のイノセンス―――六幻だ。
彼だけをどこかに飛ばしてしまったのだと思ったのだが、違うのだろうか。
その考えに至った所で、彼女は漸く先ほどの彼の様子を思い出す。
「何か、ちょっと幼かった…気がしないでもない、かも」
カンカンとブーツの底を鳴らして走りながら、後方の彼を振り向いて見る。
少し遠くて分かりにくいけれど、幼いような気がする。
となると―――
「確かめるしかないか」
骨が折れるけど、と心中で呟きつつ、クルリと振り向く。
足を止めただけではなく自分の方へと向き直った彼女に、彼はやや怪訝そうな表情を見せつつも速度を落とさない。
やがて、まるで磁石の同じ極同士が反発するかのように、一定の距離を開けてピタリとその足を止めた。
「何者だ、テメェ。その身のこなし…ただ者じゃねぇな。俺の部屋で何をしてやがった?」
「…その前に一つ聞きたい。―――今何歳?」
「………は?」
何を突然に、と神田の表情が歪む。
その質問の意図を測りかねているのだろう。
しかし、コウは再度「何歳?」と尋ねるだけで、それ以上を紡ごうとはしない。
数分の睨み合いが続き、やがて舌打ちと共に彼の方が折れた。
「15だ」
「……………3年か…」
「おい。質問に答えてやったんだ。テメェもさっさと答えやがれ」
「どうやら、3年後からタイムスリップしてきたみたい」
あっさりとそう答えた彼女に、彼は珍しくも目を丸くして「は?」と間の抜けた返事をくれた。
そんな彼に、コウは持っていた六幻を目線に上げる。
「これがその証拠。3年分の年季が入ってるでしょ…って言っても、3年後のユウの手入れが良すぎて綺麗だけど」
証拠にはならないかもしれないけれど、同じ時空に二つの同じイノセンスが存在している事だけは確かだ。
訝しげに眉を寄せつつ、彼は数歩進んできたかと思えば彼女の手の中の六幻を奪い取る。
それから、自分の持っていた六幻とそれを交互に見た。
「…どうせ偽物だろ」
と言いつつも、表情は偽物だとは思っていないようだ。
だが、彼は自分自身が言った事こそ真実だとばかりに、コウが渡した方の六幻をガシャンと床に叩きつける。
「うわ!!アンタ、何すんの!!それユウの!!」
「俺のじゃねぇ!」
「アンタじゃないっての!!」
「煩ぇ!!」
「煩いのはアンタの方でしょ!?」
これだけ騒いでおいて周囲に人が集まってこなかったのは、彼の部屋が人通りの少ない場所にあるからだ。
今回ばかりはそれに感謝すべきなのかもしれない。
コウが再び3年後の地を踏みしめたのは、それから20分後の事だ。
口論が悪化して刀を向けてきた彼から逃げるように部屋へと戻り、苦し紛れに行なった錬成が見事成功。
とりあえず彼の前から消えられるならばどうでも良いと錬成を発動させた。
元の時代に戻って来れたのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
神田の上に落ちた事以外は。
「いやー…ごめん。悪気はない」
「………悪気がねぇならさっさと降りろ!!」
「ったぁ!何も殴らなくても…!」
拳骨で殴られた頭を押さえつつ、彼の上から退く。
そうして、思い出したように握り締めていた六幻を彼に差し出した。
「はい。ごめん、何か巻き込んでたみたいで…」
「まったくだ。―――――――――おい」
「うん?」
「…お前の所為か?」
そう言って目の前に差し出された六幻の柄の部分は、あの時の衝撃で傷が入ってしまっていた。
げ、と表情を引きつらせ、座り込んだまま背後へと逃げる。
「いや、それユウの所為だから!」
「はぁ!?俺が傷つけられるわけねぇだろうが!」
「だってユウが床に投げ…っ………あ」
「ほぉ…床に投げたのか…」
「ははは…ユウさん、目が怖いですよ」
ひくっと口元を歪めると、伸びてきた手から逃れるように廊下へと飛び出す。
何が哀しくて3年後の彼と3年前の彼に追いかけられなければならないんだ、などと悪態をつきつつも逃げるコウ。
短い時間旅行は、こうして幕を閉じるのだった。
Request [ 三周年企画|紅貴様 ]
07.06.29