悔しさが、憧れに変わる瞬間
突然現れた転校生は、飛葉中学校の女子生徒大多数に大きな衝撃を与えた。
まるで女子と見間違えてしまいそうなほどに可愛らしい容姿。
名門と呼ばれる学校からの転校と言うこともあり、その知能は言うまでもない。
更に、部活サッカーだけに止めておくには勿体無いくらいの実力。
普段は言葉も交わさないような女子が集い、ファンクラブは結成された。
椎名翼が転校して、一週間後の事である。
紅が翼の幼馴染であると言う情報は、一日の間に全学年へと広まる。
噂が噂を呼び、尾鰭のついた状態で、彼女の耳に届いた時には予想通り「恋仲だ」と言う所まで発展していた。
紅は優等生の笑顔でその追求をやり過ごし、翼にいたっては否定も肯定もしない。
そんな二人の状況が、新たな噂を呼ぶと言う堂々巡りだった。
「雪耶さん!」
「あぁ、会長さん。おはようございます。いつもご苦労様ですね」
ファンクラブ結成から一週間後の事だ。
作られたばかりとは言えサッカー部も順調で、紅自身も楽しげにボールを追いかける部員に喜んでいた頃。
剣道部は朝練がない為、紅はサッカー部の朝練を手伝う。
ドリンクを用意する彼女の元にいかり肩で女子生徒が歩み寄ってくるのも、すでに日常になりつつあった。
「今日こそ許可していただきます」
「何の事でしょう?」
「マネージャーの件よ!白々しい!」
「あぁ、却下ですよ」
作業の手は止めず、紅は時折彼女に視線を返しながらそう答えた。
悩む間もない即答は、この女子生徒が朝練の度に直談判に来るようになってからの繰り返しだ。
この女子生徒、言わずもがな椎名翼ファンクラブの会長である。
「だから、納得のいく理由を…!」
「キャプテンが許可しません。寧ろ嫌がっています」
「そこを説得してって言ってるのよ」
「嫌ですよ。何で私が彼に刃向かわなきゃなんないんですか」
冗談じゃない、と口には出さないが溜め息を吐く。
マネージャーを許可してしまえば、それこそ彼の嫌いなタイプの女子がわんさか集まるだろう。
それだけは避けたい翼は、紅に絶対に許可を出すなと念を押している。
説得は、それ即ち彼に刃向かう事になるのだ。
「マネージャーの話はキャプテンに直接言えばいいでしょう。私を間に挟んでいる以上、許可は有り得ませんよ」
失礼します、と紅は用意出来たドリンクを籠に入れてその場を後にする。
休憩時間に合わせなければならないのに、これ以上の問答はタイムロスだ。
後ろで悔しそうに唇を噛み締めているであろう彼女を想像し、紅は静かに溜め息を吐き出した。
「翼」
「ん?」
「あの人が話したいって」
ドリンクを渡すついでに翼に彼女の事を伝える。
話したいと言われたわけではないが、彼が向かえば後は自分で何とかするだろう。
明らかに不愉快そうに眉を寄せる翼を宥め、紅は声を潜めた。
「いい加減に鬱陶しい」
「………わかったよ。行って来る」
中身を数回口に含むと、ドリンクボトルを紅に返して歩き出す。
驚いたのは他でもないファンクラブ会長だ。
対象である彼が此方へと近づいてくるのに併せて、鼓動が煩いほどに騒ぐ。
「話があるってあんた?」
「え……?」
「…違うの?」
「そ、そう!マネージャーの件を許可して欲しいの!」
怪訝な表情を浮かべた翼に、彼女は慌ててそう言い繕った。
それと同時に用件まで吐き出してしまうと言ううろたえようだ。
「…紅が許可した?」
「…いいえ。だから椎名君にお願いしてるのよ」
彼女の返答に翼は軽く笑って「だろうね」と呟いた。
紅は、自分に刃向かうような事はしない。
何が怖いだとか上下関係があるわけではなく、信頼の上にそれは成り立っている。
裏切らないとわかっているからこそ、安心して傍に居られる―――そんな存在だ。
「この際だから言わせて貰うけど、あんまり紅に迷惑かけないでくれない?
ただでさえ剣道部の方が大会前で忙しいのに手伝ってもらってるんだし」
「だから、私達が代わりに…っ!」
「ふーん…出来るの?紅の代わりを?」
自惚れるのもいい加減にすれば?と言う言葉は何とか飲み込んだ。
浮かんでくるのは、自分の幼馴染を低く見られたことに対する怒り。
「試用期間は三日。部員から一言でも苦情が出た時点で終了。わかったなら放課後までに二人集めて」
それだけを言うと、翼はくるりと踵を返していった。
すでに部員は紅の指示に従って練習を再開している。
その様子にふっと口元を持ち上げ、彼は紅の隣に立った。
「今日の放課後から三日間試用期間」
「へぇ…珍しい。使えるようならマネージャーにするんだ?」
「有り得ないけどね。一言でも苦情が出れば不可。紅はどうする?」
「それは随分手厳しい…。放課後、道具とか手順の説明だけしたら剣道部の方に出るわ」
大会前だからあちらも疎かには出来ない、と紅は語る。
そこで、ふと紅は隣に立つ翼を見つめた。
正面から覗き込まれた彼は思わず顔を仰け反らせる。
「何か、怒ってる?」
「……別に」
たっぷりと沈黙を取った後、彼女は「まぁ、いいか」と言って引き下がる。
何となくではあるが、理由はわかっているのだろう。
それ以上の追求はなく、二人は放課後を迎えることとなった。
結果は考えるまでもなかったのだ。
サッカー部を作り直す為に貢献した紅は、未だにその任を放り出す事無くマネージャーとして残っている。
この年齢まで培われた彼女の性格は中途半端を許さなかった。
一人のためではなく部員の為に動く彼女以上の働きなど、はっきり言って中学生に出来る筈がない。
「煩い」
一日目の放課後、部活開始一時間でそんな苦情が零れた。
「紅ー」
「どうしたの?」
「何か、サッカー部が荒れてるっぽいよ」
道場から外の景色を見て休憩を取っていた悠希が紅を呼ぶ。
その内容に、彼女は弾かれたように彼女の元へと駆け寄った。
面を外してすっきりした視界に、確かに荒れた様子のサッカー部が映る。
「荒れたというか…あれは、女子が勝手に怒ってるだけ…?」
「苦情が出たんだろうね。ここまで聞こえるほど馬鹿でかい声援だったし」
「………行って来る。ごめん、明日の練習は出るから」
防具の紐を解きながら紅が部室へと向かう。
その背中を行ってらっしゃい、と言う悠希の声が追っていった。
サッカー部を作る為に紅と共に奔走した、柾輝、直樹、五助に六助。
彼らは紅の負担が軽減されるならばと、マネージャーを引き入れることに反対はしなかった。
ちゃんと自分の役割さえ果たせるなら。
だが、一番に苦情を漏らしたのは彼らだった。
ミスの目立つ翼は、頭を冷やしてくるといって校舎裏の水道の方へと向かっている。
「いい加減にしろよ。騒ぐだけ騒いで、翼以外のメンバーは眼中にすら入れねぇ」
「な…私達はちゃんと仕事してるじゃない!」
「確かに、仕事はちゃんとしとるからええかと思うたけど…他の部員の扱いがあんまりやわ」
折角新たなスタートを切ったサッカー部の仲間だ。
翼以外はまるで目に入らないような扱いをされて、嬉しいはずがない。
「翼もかなり苛立ってるしな」
「ミスが目立つのはその分集中力を欠いてるからだ。原因はわかるだろ」
最後の一言がきっかけだった。
振り上げた手は、渾身の力を篭めて振り下ろされる。
乾いた音がグラウンドに響いた。
「な…雪耶さん!?」
「…仲間引っ叩いてどうするの?」
しかも全力で、と紅は眉を寄せる。
一応は衝撃が来ると構えていたにも関わらず、後ろの柾輝にぶつかってしまった。
結構な力が篭められていたのだろう。
「誰かタオル冷やして持って来い!」
「氷もや!」
「うわ…血まで出てるな。大丈夫か?」
「平気平気。爪が引っ掻いただけでしょ」
紅の声に、彼女を引っ叩いたマネージャー代理はぱっとその長い爪の手を隠す。
遠巻きに見守っていた部員も心配そうに紅の周囲に集まってきた。
「引っ掻いたって…結構血ぃ出てるぞ」
「爪って意外に凶器だからね。まぁ、この位問題ないよ。あ、支えてくれてありがとね、柾輝」
頭に血が上った時の衝動と言うのは、あとで後悔してしまうものだ。
彼女も例外ではなかったらしく、自身の手を握り締めたまま言葉を失っている。
一緒にマネージャーについていた会長も、止めなかった責任からか口を挟む事は出来ない。
そんな中、慌しい足音がその場へと近づいてきた。
「紅!」
「…翼?どうしたの、そんなに慌てて…」
「どうしたじゃないだろ!保健室行くぞ!!」
駆けて来たのは翼で、彼の背後には先ほどタオルを冷やしに向かった部員が居た。
水道で冷やすついでに彼に報告したのだろう。
翼はその部員からタオルを受け取ると、血を伝わせる紅の頬に押し当てて彼女の手を引いた。
居心地の悪い空気がその場に流れ、マネージャー二人はそこから立ち去ろうと一歩足を引く。
そんな彼女らの反応に気付いたのか、近かった四人の視線が二人に集う。
「………今度雪耶に何かしてみろ。サッカー部全員お前らの敵に回るぜ」
それ以上何を言うでもなく、彼らは練習に戻った。
残された彼女らは沈黙し、程なくして校舎へと踵を返していく。
しっかり冷やすようにとの言葉の後、紅の願いで翼は練習に戻る。
保険医も今は部屋を出払っており、夕暮れの保健室は彼女一人だった。
氷の入った袋が、熱い頬に心地よい冷たさを与える。
そんな彼女の耳にガラリと保健室の戸が開く音が届いた。
「会長さん…?」
長椅子に腰を下ろして窓の外を見つめていた紅だが、窓ガラスに映った人物を見て振り向く。
そこに居たのは先程までマネージャー代理としてグラウンドに居た彼女だった。
もう一人の紅を引っ叩いた彼女は一緒ではないらしい。
「…大丈夫?」
「え?あぁ、このくらい気にするものでもないよ。腫れてて、少し切っちゃっただけだし」
氷袋を持つ手を逆にすると、カラリと涼しげな音が響く。
後ろめたさから視線を落としていた会長は、やがて何かを決意したように顔を持ち上げた。
「椎名君の事、好きなの?幼馴染としてじゃなくて」
「…うん。好きだよ。でも、翼の傍に居たいからマネージャーをしてるわけじゃない」
保健室からは、少し遠いけれどグラウンドが見えた。
右へ左へとボールを追って駆ける彼らを見ながら、紅は続ける。
「サッカー部の皆が好き。だから…ありがとう。マネージャーをしたいって言ってくれたのは嬉しかった」
「私達は椎名君の傍に居たかっただけよ!サッカー部の事を考えたわけじゃ…」
「でも、マネージャーをしようと思えば、一人の事は考えてられないでしょ?
あなた達は…ただ、翼に対する想いの方が大きかっただけ」
氷が溶けてしまった事に気づいた紅は、新たなそれを取り出そうと冷蔵庫に向かう。
だが、彼女がそれを制して、新たな氷を袋に入れて紅に手渡した。
突然の変化に驚くも、紅はお礼と共に素直にそれを受け取る。
「…ファンクラブの子達には、私が責任を持って説得するわ」
「………会長さん?」
「それから、椎名君にもごめんなさいって伝えて。
彼だけじゃなくて、サッカー部が好きなあなたの代わりなんて―――出来る筈がなかったのね」
こうなる前に、気付ければよかったと思う。
でも、これ以上複雑になってしまう前に気付けてよかった。
彼女はそう思いながら、保健室を出て行く。
「私達は、迷惑にならないように応援してるわ」
戸を閉めると共に告げられた言葉。
残された紅は閉ざされた扉から視線を逸らし、夕日に染まるグラウンドを眺めた。
怒ってもいい筈の彼女は、本心からありがとうと言った。
あれが偽りの言葉だったなら、この世の8割は偽りで出来ていると思えるほどに澄んだ目で。
初めから、自分達に叶う相手じゃなかったんだと。
理解すると同時に、口元はほんのりと緩んだ。
Request [ 二周年企画|月宮由紀様 ]
06.07.02