澄んだ青空、優しい思い出

くいっと服の裾を引かれ、コウは自身の前にあるパソコンから目を離した。
そちらへと視線を移動させれば、二対の双眸が何やら期待に満ちたそれを向けているではないか。
おねだりする気満々、と言った様子の我が子を前に、コウは口元に笑みを浮かべた。

「どうしたの?」
「あのね」
「海行きたい!」

ルイス、カイルと交互に口を開く双子。
期待に満ちた黒曜石の眼差しに、彼女は内心クスリと笑う。






「何がしたいの?」と問いかければ、ぱっと笑顔を輝かせて彼らはひな鳥のように口を開いた。

「泳げるところ!」
「それから潜れるところ!」

何がしたい、と言う質問の答えとしては、些か不十分だ。
まぁ、彼らの言いたい事はわかる。
要するに、泳いで…更に潜りたいらしい。
彼らの住んでいる島は、周囲は断崖絶壁。
泳ごうと思えば泳げない事は無いけれども、その前に数十メートルの飛込みが必要となる。
その上、泳いだ後は軽いねずみ返しの崖を登らなければならないと言う何とも素晴らしい島だ。

「…お父さんに頼んでみなさい」
「「はぁい!!」」

今すぐにでも駆けていきそうな彼らの手には、夏の旅行スポットと書かれた雑誌。
それから知識を得たんだなと納得しつつ、コウは部屋を飛び出さんと駆け出した二つの背中に声を掛ける。

「今日の課題を終わらせてからじゃないと怒られるわよ?」

面白いほどにピタリと静止する二つの小さな背中。
カマをかけてみたのだが、どうやら当たりだったようだ。
彼らは顔を見合わせ、自室へと走っていく。
その気配が完全に消え去ると、代わりに廊下に別の気配が生まれた。
持ち主を知っているからこそ、コウは開いたままの扉に視線を向けて微笑む。

「やっぱりコウの部屋に居たんだね」
「朝からずっとよ。二人であれでもないこれでもないって、雑誌を覗き込んでいたわ」
「雑誌って…これ?」

部屋に入ってきて、後ろでに扉を閉める彼の手には先程の雑誌。
夏らしい背景の前には様々なスポットの見出しが、己を誇示しようと必死だ。
なぜ、それが彼の手に在るのか。
コウが首を傾げると、イルミはそれをペラペラと捲りながら彼女の元まで歩いてきた。

「廊下に落としてあった」
「…よっぽど身の危険を感じたのね…」

それこそ、雑誌を手放している事に気付かないほどに。
今は必死で午前中サボった分を取り戻そうとしているのだろう。
容易に想像できるその様子に、コウはクスクスと笑った。

「賭けようか。あの子達が、課題を終わらせるかどうか」
「…いいよ」
「じゃあ、私が勝ったらあの子達と一緒に海に行こう?」
「負けたら?」

首を傾げて問いかけるイルミ。
そんな彼を椅子に座ったまま見上げ、コウはそっと彼の腕を引いた。
本来ならば絶対に体勢を崩すなどありえないが、彼は敢えてその行動に逆らわない。
近づいた耳元に唇をよせ、口を開いた。
すっとコウが腕を捕らえる力を緩めれば、イルミはすぐに体勢を戻す。
彼の口元には薄く笑みが浮かべられていた。

「OK。賭けは成立…だね」
「今回はイルミの負けだと思うわよ。あの子達、本気だから」

クスクスと笑い、コウは彼の手にある雑誌を抜き取った。
所々に印のつけてあるスポットを見つけ、片手をパソコンへと滑らせる。
右手はキーボードの上を走り、左手は膝の上の雑誌を捲る。
目線はもちろん雑誌に向けられているにも関わらず、淀みない動きの右手。
相変わらず…と心中で感心の声を漏らしつつ、イルミは彼女の行動を眺めていた。

















「海――――!!」
「海――――!!」

楽しげにそう叫びながら砂浜を走っていく双子。
持ち前のスピードを活かし、一瞬と言っても過言ではないほどの速さで走る彼らを見て、コウはそっと笑みを浮かべる。

「ねぇ、カイルとルイスって泳げたっけ?」
「さぁ。水に入るのは初めてだと思うから…どうかしら?」

すでに彼らは膝まで海水につけて、なお沖へと走っている。
流石に溺れると言う事はないだろうが…泳げるのかと聞かれれば悩むところだ。

「波に攫われないの?」
「あぁ、大丈夫。このビーチ、遠浅だから」
「…泳ぎたいって言ってるのに遠浅を選ぶ辺り、コウも意地悪だよね」

思わずそう呟いたイルミに、コウはにこりと笑って当然と答えた。
海からの風が彼女の銀髪を泳がせる。
それに目を細め、未だ沖へ沖へと走っていく背中を見つめた。

「初めて泳がせるのに危ないでしょう。波も穏やかだし、慣れるには最適だと思うわ」
「で、どの辺りまで浅いの?」

彼の質問に、コウは照りつける日差しを弱めるように目を細める。
そして、彼らの位置を確認するとゆっくり口を開いた。

「あの子達の3m向こうは水深10m」
「…二人とも、そろそろ止まらないと溺れるよ」
「何ー?……ガボッ!」
「カイ…ゴボッ!?」

振り向こうとした二人の姿が海に消える。
呆れたように額に手を当てるイルミと、予想通りの展開にクスクスと笑うコウ。
普通に考えれば、我が子の姿が海に消えようものなら慌てるのが親と言うものだろう。
尤も、この二人に『普通』など通用しないが。

「ルシア」

コウが自身の背後に向かってその名を呼べば、彼女の脇を風が通り抜ける。
否、通り抜けたのはルシアだ。
瞬く間に双子の消えた地点まで走ると、ルシアも海へと潜る。
3秒も経たない内に、彼は二人を背中に乗せて海面へと顔を出した。
すでに浅瀬の端まで来ていたコウが、頭まですっかりずぶ濡れの二人を受け取る。

「大丈夫?」
「………はー…死ぬかと思った!」
「……海って、息できないんだね…」
「…意外と大丈夫そうだね」

遅れて到着したイルミはカイルをコウの手から抱き上げた。
頬に張り付いた、自身と同じ黒髪を後ろへと払ってやる。

「母さんも父さんも、言うのちょっと遅い」
「振り向いたら足元ないんだもん。ビックリしたよね」

ね、と顔を見合わせる双子に、コウたちも顔を見合わせた。
そして、互いに表情を緩めて砂浜の方へと歩き出す。
彼らが腰の辺りまで海水に浸かる辺りで、その身体を下ろしてやった。

「この辺で泳ぐ練習をしてから行きなさいね」

危ないから、とそう言ってやれば、彼らは元気よく「はい」と頷いた。
そして、海水に沈んだ砂に足が着くと同時に、また走り出す。

「ルイス!さっきの場所まで競争な!」
「あ、ずるいよカイル!!」

再び駆けて行く彼らを眺めながら、コウはやれやれと肩を竦めた。
彼女の隣に立ったルシアが、毛を張り付かせる海水を鬱陶しそうに払う。

「…あの勝負好きの性格、誰に似たんだと思う?」
「キルア」
「………即座に弟に責任を押し付ける辺り、イルミらしいと思うわ」

確かに、悪戯好きですぐに修行をサボる辺りはキルアの幼い頃によく似ている。
彼もよくコウの部屋にやってきては、イルミの修行から逃れていた。
それが修行を倍にするのだと、幼い彼は気付いていなかったのだろう。

「所で…そんな格好で暑くない?」
「別に。泳ぐつもりないからね」

普段通りの服装で砂浜を歩いているイルミは、何とも異様な光景だ。
少なくともビーチに溶け込むような代物ではない。
対してコウは上下の分かれたビキニタイプの水着に膝下までのパレオ。
泳ぐ気があるかどうかは別としても、ビーチには自然と言える格好だ。

「そう言えば…コウは泳げるの?」
「…私の家は、子供を崖から突き落とすどころか。島から数キロ離れたサメの群れに落とすような家なの」

ふと、思い出すような目を見せる彼女の表情は暗い。
彼女にとっては思い出すのも嫌な過去なのだろう。
怒りを覚えるようなそれではなく、ただ嫌な記憶として脳内にしっかりと根付いている。

「崖から突き落とされる方が生存率は高いと思うわ。行き成り命がけの修行。きっと水責めの方が楽ね」
「……苦労してるね…コウも」
「ま、その果てに今があるんだと思えば…悪くないわ」

会話の端で聞こえていた、楽しげな笑い声が消えた。
代わりに聞こえてきた水しぶきの音に、また沈んだのか?と二人が視線を戻す。
だが、今度は沈んだわけではなく、ちゃんと浮力を物にしているようだった。

「へぇ…筋は良いね」
「本当。とりあえず、浮く事は覚えたみたい」

これならば、もう溺れる事は無いだろう。
後は泳ぎ方さえ教えればいいのだから、指導する側も楽だ。
バシャバシャと水しぶきの合間に見える黒と銀の髪の位置を確認しつつ、コウはそちらへと歩き出した。
もう少しで彼らに手が届く、と言うところで二人が一斉に海水から顔を上げる。
ぜぃぜぃと肩で息をしている彼らを見て、彼女は静かに苦笑を浮かべた。
とりあえず、息継ぎを教えるところから始めなければならないらしい。

「泳ぎ方。教えてあげるから楽な姿勢でついておいで」

そう言ってコウは水深10mの方へと足を向け、足元がなくなったところで立ち泳ぎの要領でもう少しだけ進む。
彼女からすれば、泳ぐのに足元があっては邪魔だ。
先程この位置で沈んだばかりにも関わらず、カイルとルイスは迷う事無く彼女を追ってくる。
無鉄砲は自分譲りか…と内心考えていた事など、彼らは知らないだろう。












「痛いー…」
「…痛いー…っ」

ひりひりと痛む背中や腕を持て余し、カイルとルイスは冷たいシーツの上で唸った。
彼らの傍らでは、イルミが呆れたように溜め息をついている。

「自業自得。あれだけ日差しが強ければ日焼けするのも当然だよ」
「いーたーいー!」
「背中剥がしたいー!!」
「…剥がしてあげようか?」

騒がしい彼らに、イルミは薄く笑みを浮かべて問いかける。
その笑みを見るなり、双子はザッと音がしそうなほど勢いよく距離を取った。
近くに居れば本気で背中を剥がされそうだ。
だが、動いた所為でまた背中やら腕やらがジンジンと痛む。

「イルミ。あんまりいじめないの」

濡らしたタオルやローションを持って部屋に戻ってきたコウ。
彼女は、ベッドの端まで逃げている双子を見て、すぐさま現状を理解する。
双子が痛む身体を動かし、コウに泣きつく数秒前の事だった。

Request [ 二周年企画|冬夜凛乃様 ]
06.07.01