懐かしい、過去にそっと微笑んで

吸い込まれそうなほどに澄んだ青空。
そこにぽっかりと浮かぶのは、まるで狐を模したかのような白い雲。
それを見上げ、暁斗はそっと目を細めた。
いつかの、あの忘れる事のない空と同じ情景を、その目に焼き付けるかのように。










幼い暁斗は、盗賊業に参加する事は出来なかった。
一端の妖怪よりも遥かに実力をつけているのだが、お頭…つまり、彼の父親である蔵馬がそれを許さない。
いつも置いてけぼりを食らっていた彼は、このところ至極不機嫌だった。
意図して膨らまされた頬と、尖った唇がそれを表している。

「暁斗。また膨れてんのか?」

ボスンと頭の上に降って来た手と、少し揶揄するような声。
彼はぱっとそれを振り払い、その人物を睨み付けた。
頭に二対の角を生やし、父よりもいくらか目つきの悪い妖怪。

「…怪我したくなかったら話しかけないでよ、黄泉。今、誰かと話したい気分じゃない」
「そうかよ。あぁ、そう言えばさっきアジトの入り口が騒がしかったな」

多分、本隊のご帰還だ。
そう言って彼は暁斗に背を向けて歩き出す。
彼が向かっているのはアジトの入り口。
その言葉から、暁斗は仕方なく彼を追った。
何度か角を曲がって、漸く見えてきたそこには、すでに妖怪の壁が出来上がっている。
だが、暁斗の姿に気付けば自然と道は開いた。
その向こうにいる女性の妖怪が走り寄ってくる彼に気付く。
彼女は今まで浮かべていた冷たい眼差しを緩めて彼を迎えた。

「母さん!お帰り!!」
「待たせたわね、暁斗」

まだまだ小さい彼は、どう頑張っても紅の腰ほどしか背丈が無い。
それ故に、抱きついたと言うよりは脚にしがみ付いたと言う感じだ。
そんな彼の銀糸を撫で、紅は微笑む。
撫でられる感覚に和みそうな自身を叱咤して、暁斗は彼女の隣に立つ蔵馬を半ば睨みつけるようにして見上げた。

「お帰り、父さん」

一つの単語を区切るように強く言う暁斗。
蔵馬はそんな彼にふっと口角を持ち上げると、部下に今日の戦利品の移動を指示する。
余裕綽々、と言った感じにあしらわれた暁斗は再び唇を尖らせた。
一人、また一人とその場を去り、数分後には三人だけが残る。
蔵馬は最後の一人を見送ると、ぎゅっと紅の脚にしがみ付いたままの暁斗を見下ろし、苦笑を浮かべた。
そして、その両腕を伸ばして彼の小さな身体を抱え上げる。

「悪かったな。紅を連れて行って」

暁斗が生まれてから、蔵馬はあまり紅を連れて盗賊業に勤しむ事はしなくなった。
彼を独りにしない為か、彼女の力を借りなくてもそれなりに部下の人数が集まっているからか。
恐らく前者だが、本音のところは蔵馬しか知らない。
暁斗を腕に載せたまま歩き出す蔵馬に続き、紅も足を進める。

「…明日は…?」

珍しく甘えるように蔵馬の肩に顎を乗せて暁斗が口を開く。
その言葉に紅と蔵馬は顔を見合わせた。
何かを訴える彼の視線に、紅は黙って首を振る。

「…明日は休みだ」
「なら、出掛けたい」

幼い妖狐が一人で出歩けるほど、このアジトの周辺は安全ではない。
どちらかの同行なくしてアジトから出るなと言う言いつけを、暁斗はちゃんと守っていた。
どんなに拗ねていようが、命の危険が及ぶと理解出来ている辺りは蔵馬の溢れる知性を受け継いだと見える。

「そうだな」
「いいの?」
「久しぶりに遠くまで行ってみる?」

紅がそう問いかけてみれば、暁斗は嬉しそうに顔を輝かせた。
彼の居る場所が蔵馬の腕でなければ、喜びを身体で表すようにピョンピョンと飛び跳ねているだろう。
現に、その銀毛に包まれた尾は喜びを隠しきれずに右へ左へと揺れている。
それに気付きながらも、二人がそれを追求する事は無かった。
だが、笑いを堪えるように少しだけ口元を引き締めた事に、暁斗は気付いていない。















前を行く背中は、それだけで楽しそうだとわかる。
揺れる尾と、時折ピクリと動く耳を見ながら紅は小さく微笑んだ。
少し距離がある気もしないではないが、彼の肩には悠希が乗っているので何かあれば知らせてくれるだろう。
一定の距離を保ったまま、紅と蔵馬はのんびり暁斗の後に続いていた。

「何だか楽しそうね」
「ああ。最近はアジトに篭りっきりだったからな。偶には光合成も必要か…」
「自分の息子に光合成とか言わない」

植物と一緒にするな、と紅はそう言わずには居られなかった。
暁斗の背中は、確かに久しぶりの栄養分を受け取って生き生きとしているようにも見えるが。

「母さん!蟲!」
「あぁ、それは吸血蟲だから近づかないように。一瞬で骨と皮になるわ」

今まさにそれに向かって伸ばそうとしていた手は、驚くべき速さで引っ込められた。
蟲の方も今は空腹ではないようで、大した反応は見せない。
そんな危険なものの生息する場所を通らせるなと思う暁斗だが、道順を決めているのは父なので声には出せない。
声に出して訴えたところで、「修行の一環」として流されるのが落ちだ。

ここは沈黙を貫くべき。

そう判断した暁斗は、スススと例の蟲から距離を開けて、また何事も無かったかのように歩き出す。
危険も多いが、それ故に彼の幼い探究心を擽ってくれる。

「あまりお二人から離れるのはよろしくありませんよ?」

肩に乗った悠希が、速度を速めた暁斗に対してそう告げる。
その声に、彼はピタリと足を止めて二人を振り向いた。
確かに先程よりは少し距離が開いてしまっている。
仕方なく彼らを待つために、近くにあった木に背中を預けた。

「暁斗…前にも言ったが…」

暁斗の行動を見ていた蔵馬が静かに言葉を発した。
彼は首を傾げつつ、その続きを促す。

「何?父さん」
「その木は食妖樹木だ」
「!?!?」

蔵馬の言葉が終わるや否や、暁斗の身体には幾重にも弦が巻きついてその動きを封じる。
子犬でも持ち上げるように易々と身体を地面から引き離され、暁斗はもがいた。
ちなみに悠希はと言うと、いつの間にか紅の肩に移動している。

「と、父さん!」
「対処法は?」
「あー………ぐぇ。うー…………火…?」
「……まぁ、疑問系でも正解としておくか」

途中弦に首を絞められて危険な場面もあったが、暁斗は首を傾げつつ答える。
その様子に溜め息混じりに答える蔵馬。
彼の隣に居た紅がクスクスと笑い、自身の掌を空へと向ける形で唇を寄せる。
掌に生まれた朱の焔に息を吹きかければ、まるで暴風に踊らされたかのように焔が大きく燃え上がった。
それは暁斗を捕らえる弦の所まで届く。

「熱っ!………痛ぁっ!」

辛うじてその熱が届く程度ではあったが、熱い事に変わりは無い。
火を恐れた弦は暁斗を放り出して瞬く間に身を引っ込ませた。
おかげで彼は地面に強か腰を打つ。

「油断大敵。隙ばかり見せていると生き残れないわよ」

自身の腰をさすっている彼の前に膝を付き、紅は彼の頬に付いた泥を拭ってやる。
そして彼の脇に手を差し込むと、ひょいとその身体を抱き上げた。
そのまま歩き出す彼女に、暫し沈黙していた暁斗は悩んだ末声を掛けることにする。

「母さん、歩ける」
「右足首。痺れてるんでしょう?」

彼の方を向く事無く、進行方向に視線を投げたまま答える紅。
気付かれていた事実に彼が目を見開いた。
そんな暁斗の反応に、蔵馬が肩を竦めて口を開く。

「これも前に話したが…あの樹木は弦先に毒が仕込んである。獲物を痺れさせて捕獲するんだ」
「…ごめんなさい」
「別にいいわよ。こんな時で無ければ最近は抱かせてくれないもの」

しゅんと垂れた耳を見て、紅は笑みを浮かべてそう言った。
最近は照れが生まれてきたのか、こうして抱きかかえられる事を良しとしなくなってしまっていた。
蔵馬の場合は嫌がらないのに…などと思っていることは、彼女だけの秘密。
紅だから照れるのだと言う事には気付いていない。

「…諦めろ、暁斗」
「…そうする」

こんな嬉しそうに微笑む母を見て、大丈夫だから下ろしてくれと言える様な暁斗ではない。
恥ずかしいような、照れるような…わけのわからない感情が入り乱れているが、それは無視する他は無かった。
自身の感情から顔を背けるように、彼は空を仰ぐ。
真っ青な空にぽっかりと浮かんだ白い雲。

「ね、母さん。父さん」
「何?」
「どうした?」
「あの雲、狐みたい」

暁斗が空を指差してそう言う。
手を伸ばした所為でバランスの悪くなった彼の身体を抱きなおし、紅も空を仰いだ。
彼女らの隣では蔵馬も同じく広い空へと目を向けている。
あまり綺麗な青空を見られない魔界では珍しいほどの快晴だった。

「日が暮れるにはまだ大分あるし…もう少し歩いてみましょうか」
「うん!」















「ねぇ、母さん」
「何?」

窓ガラス越しの空を見つめ、暁斗は紅を呼んだ。
ベッドに座って読書をしていた彼女は、彼の声にそっと目を上げる。
空を見上げたままの背中はこちらを向くつもりはないようだ。
ぱたり、ぱたり、と彼の触り心地の良い尾が左右に揺れてはシーツを打つ。
その微笑ましい光景に、紅は軽く目を細めた。

「暁斗はまだ空を見上げてるのか?」

何か飲み物を用意してくるといって降りていた蔵馬が、部屋に戻るなりそう声を上げた。
トレーに乗せたまま、湯気立つカップ二つと氷の入ったグラスをテーブルに置く。
そして、暁斗の背中から彼の見上げる空に目を向けた。
紅も、蔵馬の隣から同じく窓の外の空を見上げている。

「あの日と同じ雲」
「…本当に、そっくりね」
「……三人とも覚えている事が驚きだな」

蔵馬の言葉に三人は顔を見合わせる。
そして、誰ともなしに笑い出し、部屋の中には穏やかな空気が流れた。

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06.06.30