ヒラリと超えた境界線
どうしても一線を引いてしまうのは、きっと私が異世界の者だから。
素直に受け取る事ができないのは、きっと私が弱いから。
でも、高いと思っていた敷居は…。
「雪耶――――っ!!!」
軍部内の雪耶の部屋に叫び声と共に飛び込んできた男が居た。
慣れた事、と彼女は特に反応する事なく仕事を続ける。
例え彼が部屋に飛び込んでこようとも。
例え自分を抱き枕よろしく腕の中に抱き込んでいたとしても。
そんな自分に猫のように擦り寄る男がご機嫌だったとしても。
「…ちょっとは反応して欲しいんだけど」
「今仕事中だ。こんな格好を見られたら体裁が悪いから離れろ」
冷たく返す雪耶だが、それでも腕を振り解かないのは彼女の優しさからか。
単に、力負けする事はわかっているから無駄な努力をしないだけ、とも言えるが。
「嫌」
「男がそんなに簡単に人に引っ付くなよ…」
「あ、男女差別反対」
サラリとそんな事を言ってのけたエンヴィーに、雪耶はにこりと笑みを見せる。
エンヴィーもその笑みの本意を悟らぬままに笑んだ。
「なぁ、お前って今日まで一ヶ月、何の仕事をしてたんだ?」
「暗殺だけど?」
それがどうかしたのか?とでも言いたげな視線を向けるエンヴィー。
自分の記憶と違わぬ答えに、雪耶ははり付けた笑みを深める。
「そんなお前に差別云々を言う権利はない」
ガツンッと鈍い音と共に雪耶がそう言った。
顎を強かに打ちつけられたエンヴィーは声もなく蹲る。
頭突きをかました張本人もズキズキと痛む後頭部を押さえていた。
「~~~~っ……い、行き成り頭突きする!?普通!!」
「宣言してから頭突きなんてしないだろうが…。それにこっちだって痛いんだ…っ」
お互い顎と後頭部を押さえながら涙目に文句を言う姿は、譬えようもなく間抜けだったと暁斗は語る。
「ま、一ヶ月の大仕事ご苦労さん」
湯気を立てるコーヒーをエンヴィーの前に置くと、雪耶もその前に座る。
革張りのソファーに深く腰掛け、自分用に用意したコーヒーを喉に通す。
「ホントだよ…面倒なヤツばっかりでさ…。思ったより時間かかったね」
お手上げだと言う風に両手を上げてみせる彼に、雪耶は苦笑を浮かべる。
彼女の隣を陣取った暁斗はその太腿に顎を乗せた。
雪耶の細い指が暁斗の毛を撫でる。
心地よさそうに目を細める暁斗を見て、エンヴィーが不機嫌を露に口を開いた。
「暁斗、邪魔」
「あのな…」
「ほら、さっさと雪耶から離れなよ」
ヒラヒラと手を振るエンヴィーを前に、暁斗は長い溜め息を落す。
そして、のそのそと彼女の隣から立ち上がると部屋を出て行った。
「ガキだな、お前」
と言う言葉を残して。
暁斗の言葉に機嫌を更に降下させたエンヴィーだが、雪耶はそんな事は何処吹く風だ。
気にする事もなくテーブルの上にあった新聞に手を伸ばし本日の出来事を走り読む。
拾い上げた内容に大した出来事がない事を悟ると、いつもの如くトップを飾る記事を読み出した。
その間に空いた手でコーヒーを口に運ぶ。
そんな様子を、エンヴィーはただ黙って見つめていた。
雪耶が何口目かのコーヒーを啜ろうと思った矢先、彼は口を開く。
「結婚…って何?」
「げほっ!!!」
世にも珍しく、雪耶が咽た。
げほげほと咽る彼女を前に、エンヴィーは「珍しい物見た…」などと場違いな感想をくれている。
涙目で雪耶は彼を睨みつけた。
「お前が変なこと言うからだろうが…っ」
「そんな眼で睨まれても全然恐くないよ?」
「うるさい…っ!あー…ちくしょう。お前の所為で新聞が被害を被ったじゃないか」
「俺の所為じゃないし。雪耶が勝手に咽たんでしょ」
じゃあ仕方ないよね?などと笑う彼。
雪耶が本気で怒りそうになったので、さすがのエンヴィーも笑うのをやめた。
そして、矛先は先ほどへの質問へと戻る。
「で、結婚って何さ?」
咽たことでかさつく喉を潤そうとカップを唇につけた矢先の質問。
飲みそうだったそれを何とかカップに戻し、雪耶は彼を睨む。
「…また同じ事をさせるつもりか、お前は…」
「だから俺の所為じゃないって。じゃあ、飲む前に答えてよ」
「……っつーか、お前一体いくつだよ?」
雪耶はソファーにもたれかかってその背に腕を乗せる。
そのまま眉を寄せてエンヴィーの答えを待った。
「………さぁ?数えた事ないし」
「それ位長生きしてるんだろ?なぁ、結婚の意味くらい知ってんだろうが」
「意味だけなら知ってるけどさ…。そうじゃなくて、雪耶の考えを聞きたいんだよ、俺は」
そう言ってエンヴィーは期待に満ちた…と形容できなくもない眼で雪耶を見る。
彼女はその眼差しに居心地の悪さを感じながらも、それを微塵も出さずに答えた。
「…別にしてもしなくてもいいもんだと思ってる」
「何で?人間って好きになったら一緒に居たいものじゃないの?」
「人によるだろ。私は『結婚』って言うのは周囲に自分達の間柄をはっきりさせるって意味だと思うんだ」
だから、好きな人と一緒に居る為に必要なわけじゃない。
雪耶はそう言った。その答えが彼女らしいと、エンヴィーは思う。
仕事上、必要以上にベタベタと甘えてくる女を相手した日もあった。
そんな時、いつも以上に頭を過ぎるのが雪耶の姿だ。
決して靡かず、甘えず、頼らず…。
彼女は女の弱さと言うものを武器としない。
もっとも、エンヴィーにそんな弱さは全く意味を成さないが。
「夫とか妻とかって肩書きと一緒だと思う。それと同時に、互いを拘束し合う見えない鎖…かな」
「同感。俺は誰かの夫って言われるのは絶対にごめんだね」
「だろ?私だって誰だれの妻って話されるのは嫌だね」
口の端を持ち上げる雪耶。
エンヴィーがそう言う考えを持っていると言う事くらいはわかっていたようだ。
「ねぇ、雪耶。俺は雪耶の事好きだよ」
ふとエンヴィーが紡ぐ。
雪耶は驚きに目を見開いた。
「知らなかったわけじゃないよね。あれだけ行動で示してたんだから」
「…まぁ」
あれで気づかないほど雪耶は鈍くない。
むしろ勘自体は冴えているのだから。
雪耶は暫し俯くように視線を落す。
しかし、ゆっくりとそれを持ち上げ、微笑んだ。
「ごめんな?気持ちだけは受け取っておくよ」
自分にとって唯一の人物だと、胸を張って言える。
しかし、その気持ちに応える術を雪耶は持っていなかった。
異世界であると言う事実が雪耶とエンヴィーの間に境界線を引く。
その無情な線は決して消える事はない。
その事実は、どうやっても変える事は出来ない。
「異世界の住人だから…とか言うつもりじゃないよね?」
見透かしたような彼の言葉に、雪耶は僅かながら肩を震わせた。
それを見逃すほど付き合いは短くない。
「……別にいいんだよ。そんな事はどうでも」
「そう言うもんでもないだろ!」
「俺にとっては蟻より小さな障害だね」
ヒョイッとテーブルを飛び越えると、エンヴィーは雪耶の頬に触れた。
「ほら、ね?簡単に触れられる。それだけで十分だよ」
そう言ってエンヴィーは額に触れるだけのキスを落す。
それだけで引こうとした彼の首を、雪耶が抱き寄せた。
彼女から重ねられる唇。
「…答えはこれで十分か?」
「……ま、今は満足しとくよ。そのうち言葉で貰うよ」
そうして二人は微笑んだ。
好きだと言ってくれて、ありがとう。
不安を消してくれて、ありがとう。
今はまだ言葉に出来ないけど…いずれは自分でちゃんと伝えられるよ。
お前になら。
05.07.01