Black Cat
白ひげ海賊団

「“動くな”、赤犬」

決して大きくはない声だと言うのに、その声がその場を鎮めた。
耳から伝わった声が鼓膜のみならず全身の細胞ひとつまでを支配する。
ただ一人、それを体感している赤犬は、ギリッと奥歯を噛んだ。
まさか、この状況でこの女が出てくるとは―――
形成が一気に逆転しかねない女の出現は、この上なく彼を苛立たせる。

「スフィリア・オルガ―――」

誰かが、そう呟いた。















「あんた、は…まさか…」

今まさに眼前に迫っていた拳が、ぴたりと止まった。
貫かれることを覚悟したのに、相手の赤犬はそれ以降ピクリとも動かない。
一つだけ、理由が浮かんだ。
まさか、と言う思いがある。
けれど、この状況を実現できる者は、この世に一握りしか存在しない。
黒髪をなびかせた眼帯の女性は、エースを見下ろして口角を持ち上げる。

「お察しの通り、だろうね」

淡々と答えると、彼女はエースの腕の中のコウを見た。
赤犬の攻撃をまともに食らったコウは、命こそ無事だが肋骨の2本程度はやられているだろう。

「折角ある力の使い方を知らないとは…平和に育ったものだね、この子も」

膝をついた彼女は、瞼を伏せるコウの頬を乱暴に拭う。
血で汚れた頬が、少しだけ素肌を見せた。

「のこのこと出て来よって…今更捨てた娘が恋しくなったか?」
「お生憎様。そんな母性本能は持ち合わせちゃいないよ。一度捨てたものを拾うつもりはない」
「っなら、何で…!!」
「あたしは古い約束を果たしに来ただけさ」

コウを捨てた母親。
話に聞いていただけで、何か事情があったのかもしれないと思うようにしていた。
けれど、その本人から捨てた事実を聞かされ、コウを支えるエースの手に力が籠る。
彼女、オルガはエースの鋭い眼差しを受け、ニィと笑みを浮かべた。

「センゴクにニューゲート!!ガープもいるのかい!?久しいねェ…まるで同窓会だ!!」

アハハ、と彼女は高らかに笑う。
彼女を知らぬ者は、その存在感に自分の取るべき行動を見失った。
彼女を知る者は、彼女が取る行動に警戒する。
スフィリア・オルガは海軍にとって、警戒に値する人物なのだ。
先ほど赤犬を止めたことでもそれは立証されている。

「ロジャーの息子。東の海岸にあたしの仲間がいる。その船に乗って、どこへなりと消えな」
「何で助ける!?」
「あんたに教える必要はないね。自分と、その娘…コウを助けたいなら、行きな」

彼女はそれっきり、エースに視線を向けなかった。
信じるべきか、否か。
浅い呼吸を繰り返すコウを腕に抱き、決断を迫られたエース。

「エース!!オルガの指示に従え!!」
「!…オヤジ…だけどっ!」

コウを捨てた女だ!
エースがそう続ける前に、白ひげが声を重ねた。

「いいから行け!!」

彼の中の白ひげの存在は絶対。
彼が行けと言うならば、他に選択肢など存在しないのだ。
エースがコウを抱き上げ、呆然としているルフィを振り向く。

「ルフィ!!お前も来い!!」
「お、おう!!」

状況についていきかねていたルフィを呼べば、戸惑いつつも返事が返ってくる。
走り出す彼らの前に立ち塞がるのは、自由を取り戻した赤犬だ。

「逃がさん!!」
「“動くな”って言ってるんだよ、あたしが」

また、あの声だ。
足どころか指先ひとつも、その声の前に平伏す。
赤犬が憎々しげに眼球を動かしてオルガを睨み付けた。

「行きな、ロジャーの息子。だが、あたしがあんたの味方をするのはこれが最初で最後だよ」

よく覚えておきな。

そんな声に見送られ、二人が走る。
それを擁護するように白ひげの傘下のメンバーもまた、彼らの進路を作る。
東へ!彼らはただ、突き進んだ。










「さて、と。物騒な目で睨むんじゃないよ、センゴク」
「賞金稼ぎのお前を甘く見ていたようだな。身内の情が湧くとは思わなかった」
「身内の情?さっきも言った通り、あたしはあの娘を助けに来たわけじゃないよ」

聞いてなかったのかい、とオルガは笑う。
彼女はその脳裏で、古い約束を思い浮かべた。





「あたしにそれを頼むのかい?あんたとは敵だったはずだけどね…」
「あぁ。だが、お前はNoとは答えねぇ」
「…………………いいだろう。その首、貰う代わりに一度だけ…あんたの息子を助けると、約束する」



「無駄な抵抗はしねェ。だが、手柄はスフィリア・オルガにくれてやれ」
「何を馬鹿な…」
「最高の賞金稼ぎと手を組んで海賊王を捕えた―――海軍には悪くねェ話だろ?」
「……………よかろう。貴様の賞金の半分はオルガのものだ」
「そうだね。それで手を打つよ」






「賞金稼ぎとして、あんたたちにはそれなりに世話になったと思っているよ。天竜人の一件も、ね」
「恩を仇で返すか…」
「海軍との関係はギブ・アンド・テイク。あたしが恩を感じる理由がどこに?」

彼女を知る者は、その言葉に唇を噤む。
賞金稼ぎの船の船長を務める彼女は、ゴールド・ロジャー捕縛に貢献した賞金稼ぎとして有名だ。
実力もあり、数多くの賞金首が彼女の手により、海軍へと引き渡された。
ある意味、海軍にとっては味方、海賊にとっては敵と言える人物。
そんな彼女が初めて、海軍に牙を剥いた。

「この約束だけは…あたしの全てで果たすと誓ったんだ。ロジャーの息子には逃げてもらうよ」
「させると思うか?」
「もちろん。だって…あんたはあたしに逆らえない。この“海声の民”の声には…ね」

不敵に微笑むオルガに対し、センゴクは悔しげに拳を握る。

「上層部は能力者が多すぎるんだよ。あたしが牙を剥いた途端、あんたたちは無力な人間だ」
「能力者だけではないぞ…!」
「ああ、そうさね。だが、能力者が無力なら、あとはニューゲートが適当にやるさ」

なぁ?と笑いかけた先に、白ひげの姿があった。
いつの間にか近付いてきていたらしい白ひげが、オルガの隣に並ぶ。

「エースの事…感謝する」
「あんたに感謝される筋合いはないさ。礼ならあの世のロジャーに言いな。ここを出たらまた敵同士だよ」
「あぁ…そうだな」

頷くのを見届け、オルガはぐるりと自分たちを囲う海軍を見回す。

「さぁ―――自由時間は終了だよ、海軍諸君」

口角を持ち上げるオルガの隣で、白ひげが自身の能力を発動した。

10.09.26