Black Cat
赤髪海賊団
時間が時間だからなのか、道に人の姿はない。
ただ、建物の中からは人の声や気配がしていて、まだ眠るには早い時間だとわかる。
そんな静かな時間の中を歩く、シャンクスの足音。
コウは未だ夢心地のまま、彼の腕の中にいた。
きっと頬は落ち着いた。
けれど、そのまま猫の姿を保っているのは、何を言えばいいのかわからないから。
―――俺も、お前じゃないと駄目らしい。傍に置いておきたい。コウ、愛してる。
先ほどのシャンクスの言葉が甦る。
彼が本気だとわかっているのに、またいつもの冗談かもしれない、と思う自分がいた。
シャンクスは、こういう大事なことで冗談を言わない人だと理解しているけれど…割り切れないのも仕方ない。
彼の真剣な言葉を本気と受け止められない自分が、嫌だった。
「なぁ、コウ」
名を呼ばれて顔を上げる。
シャンクスは前を向いたままだ。
「四皇の女は大変だが…ついてくるか?」
その時になって、彼はコウを見下ろした。
猫の姿だからなのだろうか―――コウは初めて、冷静にその言葉を聞くことが出来ている。
トンと彼の腕を蹴って地面へと降りた彼女は、人の姿に戻った。
涙はなくとも、その名残の残る顔。
シャンクスが何かを言う前に、コウは彼に抱き付いた。
その首に腕を回して、今このひと時が偽りなく現実のものであると確かめるように、強く。
「シャンクス、好き…!」
声が詰まって言葉にならない。
けれど、伝えたい想いがある。
シャンクスの首筋に顔を埋め、ただただ同じ言葉を繰り返した。
そうか、と呟く優しい声と共に、背中を抱き寄せるあたたかい腕。
これが夢じゃないのだと―――漸く、実感した。
良かったな。
涙で赤く腫れてしまった目元に気付きながらも、ベックマンはそう言って笑った。
コウの頭を撫でる彼の手は優しい。
「やっとあの人も覚悟を決めたか…ったく…随分時間がかかっちまったみたいだな」
「…“やっと”?」
小首を傾げるコウに気付き、ベックマンはくくっと喉で笑う。
「あの人はもう何年も前からお前が可愛くて仕方ねぇんだよ」
知らなかったのか?と問われ、記憶を辿るコウ。
確かに、とても可愛がられていることは知っていた。
特に、怪我をしないようにと言う根回しには舌を巻く。
鉄壁の守りのお蔭で、コウが戦闘に参加した回数は片手で数えられるほどだ。
だが、その可愛いと言う感情は、それこそ動物愛護の感覚だと思っていた。
そう話すと、ベックマンは煙草を銜えたまま肩を揺らした。
「そりゃあ、お前…必死だったからな」
「?」
「男は色々とな、考えちまうんだよ」
気にするな、とまた頭を撫でられる。
誤魔化されているような気がしたけれど、追求する必要はないと感じた。
「ベックも好きー」
強面だけれど、とても優しい人だと知っている。
コウは喉を鳴らしそうなほどに嬉しそうな笑顔で、ベックマンに抱き付いた。
彼女がこんな風に抱き付けば、煙草が危なくないようにと遠ざけてくれる。
「酔ってんのか?」
「ううん、飲んでない。ずっと愚痴を聞き続けてくれたベックへの感謝を示しただけ」
首に抱き付くには身長差があるので、彼の胸元で腕を回す。
鍛えられた身体はごつごつしていて抱き心地は良くない。
けれど、その強さが仲間を守るのだと思えば…とても好ましいと思えた。
そんな風に彼を堪能していたコウの頭上で、深い溜め息を落とす彼自身。
コウを可愛いと思っているのはシャンクスだけではない。
そして、こうして甘えてくる彼女を振りほどくほど、鬼ではない彼。
好きにさせておくか、と考えたところで、この状況を良しとしない人物が部屋に入ってきた。
「コウ!!」
声を聞いて、コウの頭に耳が生えた。
どうやら少し驚いたらしい。
そのままの姿勢で首だけを振り向かせた彼女は、パッと表情を輝かせた。
「あ、シャンクス。おはよう」
「おはようじゃねぇだろ!起きたらいねぇと思ったら…何ベックマンに抱き付いてるんだ、離れろ」
そう言いながらも無理やり引き剥がそうとしないのは、コウがとても懐いていることを知っているからだ。
シャンクスの言葉に、コウは少しだけ悩み、ベックマンから離れる。
来いよ、と手招きされ、シャンクスの元へと向かった彼女。
甘えるのが好きな彼女だから、そのまま抱き付いていくだろうと―――その場の誰もが、そう考えた。
しかし。
「…コウ?」
丁度中ほどのところでぴたりと足を止めた彼女は、面白いほどに狼狽えていた。
あー、うー、と訳の分からない声を零し、視線を彷徨わせる。
そして、困りに困った彼女が助けを求めるのは、やはり彼だった。
くるりとUターンして戻ってきた彼女に、ベックマンが首を傾げる。
「どうした?」
「私って今までどうしてた!?」
「どうって…普通だろ」
「……………どうしよう。普通って何!?」
小声で交わされる会話に、なるほど、と納得する。
彼女の顔は言うまでもなく赤い。
昨日までとは違う関係に、誰よりも戸惑っているのは彼女自身のようだ。
長い長い片思いの期間のお蔭で、ぶつかっていくことには慣れている。
けれど、受け入れられることには全く慣れておらず、腕を広げられるとどうすればいいのかわからないらしい。
機微な女心などベックマンには理解できないけれど、コウの頭の中は手に取るように理解できた。
「とっておきの対処法を教えてやる」
この対処法はきっと、彼女を助けるだろう。
しかし、シャンクスにとっては嬉しくない物だ。
理解しながらそれを告げるのは、長い間彼女を悲しませていたせめてもの仕返しだと思って諦めてもらおう。
「コウ…いい加減戻れよ」
「にゃー」
「…はぁ」
「にゃあ?」
「…ま、その姿のお前も可愛いけどな。偶には戻ってくれよ」
「………慣れたら、ね」
その後しばらく、シャンクスの傍らにはいつも黒猫がいた。
10.12.05