Black Cat
ハートの海賊団
危うく致命傷だった大きな傷に加え、銃創が一つと何箇所かの骨折。
十分に重傷だったコウは、点滴を腕に刺したままこの船の船長と向き合っていた。
真面目な話をするのだから、と人型に戻ろうとした彼女を止めたのは、他でもない彼だ。
変化の最中に身体に負荷がかかる可能性があると言うことで、黒猫姿のまま箱の中で伏せている。
「この怪我はどうしたんだ?」
「…あの島に着いて、逃げようとしたから…」
その時の事を思い出したのだろうか。
怪我の原因など、聞く必要はない。
自分の仲間ならば船長として、また船医として把握する義務があるだろう。
しかし、彼女はベポが見つけて拾ってきただけの繋がりだ。
それなのに、声を重くしてあの島までの出来事を話し出す彼女を、止めようとは思わなかった。
知りたいと―――そう、思ったのかもしれない。
“東の海”に浮かぶとある島。
そこのフーシャ村で育ったコウは、幼い頃に一つの海賊団に影響を受け、幼馴染と共に海に出る決意をする。
我が身一つで生きていかなければならないことを理解していた二人は、懸命に準備を進めていた。
始まりは、もう2年もすれば海に出られる―――そんな日だった。
「攫われたの、私」
コウは顔を俯かせ、重ねた前足を見つめながら、そう言った。
「…随分と物騒な村だな」
「そんな事…なかった。平和な村で…それなのに、あいつらが来たから」
猫なのに、表情が見えた。
能力者とは言え、元は人間なのだと理解する。
「村を荒らしたりはしなかった。逆に、私を隠してから…私の親を知ってるから、連れて行くって。
親とは昔に別れて、それ以来会ってなかった。村の皆はそれを知ってたし…その人柄を、疑わなかった」
ただ一人、共に育った幼馴染を除いては。
「あいつは、私が親に会いたいって…連れて行って欲しいと頼まれたって、そう言った。
皆はそれを信じて…ルフィだけが、そんな筈ないって必死だった」
「…“ルフィ”?」
「うん。私の、幼馴染」
猫の姿だと嵩張らない身体を箱の中に閉じ込められて、気分が悪くなる腕輪を付けられた。
半信半疑ながらも、男の言い分に納得し始めてしまった皆。
違うんだと叫びたくても、口枷が邪魔でうめき声すら出ない。
―――あの子は既に俺の船だ。別れが寂しいから、会いたくない…皆には、ありがとうと伝えて欲しいと。
―――ふざけるな!
―――ルフィ。コウがお母さんに会いたいなら、止めちゃ駄目よ。
―――嘘だ!俺と一緒に海に出るんだ!俺達はシャンクスと約束したんだから!!
嬉しかった。
男の話を鵜呑みにせず、今までの自分を信じてくれたルフィの言葉が、嬉しかったのだ。
ここだと伝えたい―――けれど、指一本すら動かすことも億劫で、声を出そうとすることにも疲れていた。
「次に目が覚めたら、私は船の上。島はその影すら見えなくなっていて…駄目だったんだって、理解した」
「人売りか?」
「そう。悪魔の実の能力者は、売ればお金になるんだって。…女は、特に」
ぽたり、と最後の一滴が落ちる。
それに気付いたローが椅子から立ち上がり、コウの腕に刺さっていた針を抜いた。
点滴を片付ける様子を眺めつつ、ぼんやりとこれまでの事を思い返す。
「あの島に着いて、腕が痛いって腕輪を外してもらった。その隙に逃げたんだけど、見つかって」
「で、あの怪我か?」
「そう。それでも戻りたくなかったから…必死に逃げてたの。そうしたら、崖で足を踏み外して…」
言葉を濁したのは、そこから先の記憶がないからだろう。
そう言えば、ベポが船を着けた岬の傍で見つけたと言っていた。
あそこは断崖絶壁のすぐ傍。
能力者が海に沈まなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
「…災難だったな」
彼の手が、コウの頭を撫でた。
少しの沈黙の後、うん、と答えた彼女の声は震えていたかもしれない。
災難なんて言葉では片付けられない。
けれど、もう大丈夫だと言われたような気がして、肩の力が抜けた。
すると―――
「~~~~~っ!!!」
気が抜けたのか、予想外の所で猫から人間への変化。
不必要な動きに、ビキビキと全身が悲鳴を上げる。
悲鳴すら声にならない状況に、自身を抱え込むように蹲る。
いつの間に箱から転がり落ちたのか、床の木目が視界に入った。
しかしそれも一瞬のこと。
ぎゅっと目を閉ざしてしまえば、視界は黒に染まる。
「少し耐えろよ」
そんな声が近くで聞こえた。
同時に、ふわりとした浮遊感を覚える。
揺れに対して痛みを感じつつも視界を薄く開けば、遠かった彼の顔が、とても近くに見えた。
猫の時ほどではないにせよ、ふわりと感じたアルコールの匂いに、彼は医者なんだな、と改めて認識する。
痛みから逃げるように身を強張らせること数秒。
ベッドの上に彼女を下ろしたローは、机の上に置いていた注射を手に戻ってくる。
あまり注射を経験していないコウは、全身の痛みに眉をしかめつつも、目を丸くしてその様子を見つめた。
そんな彼女の視線に気付いた彼が苦笑を浮かべる。
「嫌いか?」
「…ううん。大丈夫」
「鎮痛剤が切れたんだろう。半分だけ打ってやるから、そこで大人しくしてろ」
注射針の痛みなど高が知れている。
宣言どおりに半分の量を打ち終えると、それをテーブルの上に置く。
そして、自分は立ったままの状態でコウを見下ろす彼。
「…予想したより若いな」
「声だけは大人だって、よく言われる」
猫と言うのは、それなりの年齢で大人の体つきに成長する。
その所為なのかどうなのか、声が大人だと人間の姿まで大人だと連想されてしまいがちだ。
本当の彼女は、まだ10代だと言うのに。
人の姿であっても猫を連想しそうな大きな金色の目。
痛みの所為か、うっすらと涙を纏うその様子は、ひどく庇護欲をそそるものだった。
「とりあえず…その怪我で追い出したりはしねぇ。まずは傷を癒すことが第一だ」
そう言って、目を覆う辺りまで布団を掛けられた。
何とか動けるようになった身体でそこから顔を出すと、ドアの方に向かう背中が目に入る。
呼び止めようとして、けれどかける言葉が浮かばない。
開いた口は所在無く閉じていき、溜め息だけが零れた。
―――行かないで。
そう言いたかった訳じゃない。
けれど、そう言いそうになった。
ここまでずっと、誰も信じられずに…ただ只管、機会だけを窺って息を潜めるように生きてきた。
誰かを頼る事を忘れてしまっていたのかもしれない。
そうして、ドアノブに手をかける背中を見つめ続けると、彼もまた、溜め息を吐くのが見えた。
くるりと肩越しに振り向いた彼と視線が絡む。
「…お前を拾ってきた連中に声をかけてくる。それから―――言いたい事は口で言え」
再び前方に視線を移した彼は、そのまま部屋を出て行った。
気付かれてしまった羞恥心と、気付いてくれた嬉しさと。
入り乱れた感情に、コウは困ったように笑った。
そして、見慣れない天井を見つめて、ぼんやりと考え事をする。
ルフィとは違う。
シャンクスとも違う。
けれど、度量の大きな人だと感じた。
各地で人の良さを売りに人攫いを繰り返し、守銭奴へと堕ちた男を、何年も見続けていた。
半ば麻痺した感覚には、彼と言う人はとても大きく見えたのだ。
あれが、“偉大なる航路”を進む海賊船の船長の姿なのだろうか。
そんな風に考えていた所で、あ、と思い出す。
「名前、聞いてない…」
道理で先程声をかけられなかったわけだ。
きっと、先程呼びかけたかったのは言葉ではなく、名前だったのだ。
間抜けな自分に苦笑いを浮かべてから、掛け布団に包まってごろんと横を向く。
少しだけ傷が痛んだけれど、耐えられないほどではない。
ふわりと鼻腔を突くアルコールのにおいが彼を思い出させ、コウは小さく笑った。
09.05.23