暗号解読シリーズ
「―――そう、わかった」
そう言って、イルミの通話は終わった。
ソファーで身体を包み込むようなクッションに埋もれ、大きなテレビに向けていた視線を彼へと投げる。
それに気付いたのか、彼は無音でコウの隣へとやってきた。
足音がないのは彼の技術的な問題か、はたまたこのフロアの床の性能か。
「クロロからの依頼が決まったよ」
「そう、ですか」
わかっていたことのはずだった。
けれど、ストーリーがコウの知る通りに進んでいくことに、不安を抱かないと言えば嘘になる。
パクノダはあのように言っていたけれど、それでも、何かできないだろうかと考えてしまうことに罪はない。
「クロロに預けるのはやめておくよ」
「…危ないんですね」
「…前から思ってたけど、クロロが安全だと考えるのはやめた方がいい」
「………はい」
そう返事をしながら、コウは視線を落とした。
クロロから話を聞かされるまで、彼との出会いが二度目であることを忘れていた。
それだけではない、コウは今まで何度も、記憶を忘れていることに気付いた。
周囲からのきっかけによって思い出すことはできるけれど、自分では忘れていることを自覚していない。
日常生活に必要な知識や、記憶を忘れたことはない。
けれど―――そう、かつての世界の記憶が、ごっそりと抜け落ちることがあるのだ。
「…どこか悪いのかなぁ…」
柔らかいクッションを抱き、そこに顔の半分を埋めたまま呟く。
その言葉はイルミの耳へと届き、彼の視線が彼女へと向けられた。
ぼんやりと前を見つめるその目が、何も映していないように見えて思わずその肩に手を伸ばす。
「?何ですか?」
きょとんとした様子でこちらを向くコウに、先ほどの名残は見当たらない。
呟いた言葉も、恐らくは無自覚だったのだろう。
「…疲れてる?」
「え?うーん…大丈夫ですよ。そう見えたなら、昨日の気疲れでしょうか」
なんて笑う彼女の呑気な表情に安堵した。
「何時頃に出ますか?」
「離島だから、夕方には出るよ」
「わかりました」
「コウはどうしたい?」
「…今日は、部屋で大人しくしています」
そう伝えると、イルミは、そう、と頷いた。
コウに何かができるとしても、それは“今日”ではなかったはずだ。
少なくとも、まだすると決めたわけではないけれど。
夕方になり、イルミが部屋を出て行った。
日が暮れてから窓際に寄ると、あちらこちらでネオンや電灯、車のライトではない光が見える。
防音設備の整ったこのホテルまで音が届くと言うことはない。
しかし、いくつかの黒煙が上がる様子が見えて、街中に混乱が広がっていることを悟った。
それらの情報から逃げるようにして、分厚いカーテンを閉ざす。
まるで世界から切り離されているかのように、外とは無縁の穏やかなコンサート模様が流れるテレビ。
その画面に視線を向け、柔らかいクッションを抱きしめる。
眠気が来るわけでもなく、かといって何か行動を起こすわけでもなく。
ぼんやりと過ごしてはいたけれど、やはり閉ざしたカーテンの向こうが気になって仕方がない。
傍らに投げ出していたケータイを手に取り、指先で操作する。
イルミから渡されているそれは非常に性能がよく、当然のように電脳ページも閲覧可能である。
考えるでもなく目に留まったページをめくっていくうちに、そのページに行きついた。
「――――っ」
知っている、知っていた。
こうなると、わかっていたはずだ。
けれど、自分の知る人間の、たとえ偽物なのだとしても、このような姿を目の当たりにしてしまうと。
持っていたケータイをソファーに放り出し、部屋に備え付けられているトイレへと駆け込んだ。
数分間、個室の中にこもっていて、そこから出てきたときには全身の倦怠感が酷かった。
フラフラとベッドへと向かうけれど、思い直して方向転換し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
冷えたそれが焼け付いた感覚を残す喉を潤してくれることにほっとし、ベッドに腰掛けた。
そのまま倒れこんでしまえば、疲労感からなのか、眠気が押し寄せてくる。
深みへと誘うそれに抵抗することなく瞼を閉ざせば、そう時間をかけることなくコウの意識は落ちた。
イルミが部屋に戻ってきたとき、コウはまだ眠ったままであった。
深夜というわけではないけれど、それなりの時間である。
先に眠ってくれていても構わなかったのだが、彼女は起きているだろうと思っていた。
膝から下をベッドから落としている様子を見れば、恐らくは眠ってしまった、という状況に近いものであるとわかる。
足音もなく彼女の元に近付き、すぐに気付いた。
「………」
サラリ、と頬にかかる髪を払い、やはり、と思う。
普段は健康的な顔色が、病的に悪い。
自分がこの部屋を出て数時間だが、何が彼女をここまで追い詰めたのだろうか。
首を傾げて室内を見回すけれど、特に何かが変わった様子はない。
そこで、不自然に投げ出された彼女のケータイを発見し、近付いてそれを拾い上げる。
難なく開かれたそこの表示されていたページを見て、彼女の変化の原因を知った。
それをテーブルの上に置くと、再びコウの傍へと近付く。
投げ出された足から靴を脱がせてその身体を抱き上げ、ベッドの中央へと移動させる。
シーツをかけなおしたところで、彼女の表情が動いた。
「―――…」
髪を撫でる感覚に、意識を覚醒させる。
薄く瞼を開くと、能面のような顔が思ったよりも近くにドキッとした。
イルミの顔は見慣れているけれど、寝起きに覗き込まれるのは心臓に悪い。
「…お帰りなさい」
「うん、ただいま。顔色悪いね」
「そう、ですか?」
「あれ、偽物だよ」
何という説明もなく告げられた言葉に瞬きを返す。
「親父たちが依頼を受けた十老頭は俺が始末したから、親父たちへの依頼は無効。
親父たち以外にクロロを殺れる奴なんて、この街にいないよ」
スラスラと語られるその説明を聞きながら、今日のイルミはよく喋るなぁと場違いな感想を抱く。
けれどそれが、自分を安心させるものだと知っているから、思わず笑みが零れてしまう。
「安心した?」
「…元々、信じていませんでしたよ」
ページの内容があまりにもグロテスクで、かつ偽物でも知人のものだったから精神的にきてしまった。
そういうと、イルミは少し沈黙して、そう、と頷いた。
それでも、未だ頭を優しく撫でてくれるその手に、浮かんだ笑みをそのままに擦り寄る。
「でも、ありがとうございます。イルミさんがそういうなら、本当にそうなんだって信じられます」
そう言って微笑むと、両腕を伸ばしてイルミの首へと抱き着いた。
そのときのイルミの表情を、コウは知る由もない。
数分後、我に返ったコウは顔を真っ赤にして慌てて彼から距離を取った。
17.10.28