暗号解読シリーズ
その後もクロロの元には団員から何度か連絡が入っていたが、詳細は知らない。
何度かクロロからの意味深な視線は受けたけれど、これ以上情報を漏らしてなるものかと、その全てを無視した。
そうして、そろそろ日付が変わろうかという頃。
ケータイのホーム画面を見つめていたコウが、ふと何かに反応して顔を上げた。
そして、窓ガラスのない窓へと視線を向けると同時に、そこにイルミが現れる。
一気に警戒モードへと移り変わるクロロ以外の団員を横目に、コウはホッと安堵の息を零した。
「お待たせ」
おいで、と手招きされ、迷わず腰を上げて瓦礫の中を歩く。
「助かったよ、クロロ」
「ああ、気にするな。こちらも中々、有意義な時間だった」
「………」
「心配するな。何もしていないし、念について聞き出してもいない」
クロロの言う“有意義な”という部分にイルミの空気が冷めたのを感じたのだろう。
彼は補足するようにそう言って小さく笑う。
「依頼は?確定した?」
「いや―――まぁ、恐らくは、と言ったところか。また連絡する」
前に話していた、ヨークシンでの仕事の件だろうか。
イルミの傍へとたどり着いたコウは、大人しく話が終わるのを待つ。
「しかし…その場合はどうする?」
ちらりとコウへ視線を投げてから、「こちらで預かるか?」と問う。
「…状況次第だね」
「わかった」
そこで一段落したのだろう。
イルミの視線がコウへと向けられ、上から下へと一巡する。
それから差し出された手に自身のそれを重ねたところで、あ、と思い出したように室内を振り向いた。
「ありがとうございました」
その言葉を言い終えるが早いか、膝裏を掬われて横抱きにされる。
え、と言葉を詰まらせ、覚悟を決める間もなくイルミは窓枠を蹴った。
「ここ5階ぃぃぃぃーっ!!」という声が遠のいていき、やがて聞こえなくなる。
それと同時に、室内の緊張感が消えた。
「………彼女、変わっているわ」
「ああ、そうだな」
「それに…もしかして、あなたより早く気付いた?」
パクノダの問いかけに、クロロは笑みを深めた。
彼女の質問は、イルミが現れたときのことを指している。
イルミが姿を見せて警戒したのは団員であり、そこにクロロは含まれない。
更に言うならば、コウはそれよりも早く反応を示しており、彼とどちらが早かったのかはパクノダにはわからなかった。
今の反応を見る限りでは、恐らくは彼女の方が先に気付いたのだろう。
「慣れているからじゃないか?ある意味、動物的だな」
勝ち負けのものではないし、彼女に劣っているとも感じていない。
ただ、クロロは彼女の反応をそう解釈した。
「彼女は不思議ね。彼はもちろん―――ヒソカやあなた、私にも、すごく心を許しているわ」
少なくとも、“好きな人”というカテゴリーに含まれる程度には。
その部分は言葉には出さず、彼女とのやり取りを思い出す。
実のところ、能力を使って読み取ることができた記憶の中で、大小はあれど浮かんだ人物は一人ではなかった。
「私たちが蜘蛛だと知っているのに、どうしてかしら」
そこが心底疑問である、と首を傾げるパクノダにクロロは笑う。
「あぁ、なかなか理解が難しい感情ではあるが…そこが面白い。その信頼を裏切ったらどうなるんだろうな」
楽しげにそう告げる彼に対し、驚いたような表情で見つめるパクノダ。
そのつもりがあるのかと問う目に、クロロが首を振った。
「今のところは、その予定はないな。イルミに頼みたい仕事もある」
今の関係をこじらせるのは得策ではない。
こともなげにそう答える彼に、どこまでが本気なのだろうかと悩む。
途轍もなく品質の良いシーツが用いられたベッドは、人ひとりくらいではギシリと鳴ることもなく。
とは言え、ゾルディックで使われているものと大差がないと感じるのは、コウの感覚の問題だろうか。
それとも、あの家の中で使われているすべてが一級品だと言うことだろうか。
判断できないなぁ、と手触りの良いシーツを撫でていると、シャワールームの開く音が聞こえた。
それに気付くと、コウは少し高いベッドからひょいと降りて、ソファーに座ったイルミの元へと歩く。
用意していたドライヤーを持ち、彼の長い黒髪を隠すタオルに手をかける。
本来であればさらりと絹が流れるような質感の髪は、水気を含んでまとまりが強くなっていた。
「乾かしますよ」
始める合図の代わりにそう声をかけ、ドライヤーのスイッチを入れる。
ソファーに深く腰掛けた彼の後ろに立ち、髪を傷めないようにと気を付けながら乾かしていく。
そう多い頻度ではないけれど、イルミの髪を乾かすのはこれが初めてではない。
きっかけが何だったかは忘れてしまったけれど、イルミの無頓着さにコウが見かねたことが理由である。
自然乾燥のままであの髪質が維持されていたのだから、ある意味ではコウのお節介とも言えるかもしれない。
「―――コウ」
「はい?」
ドライヤーの音に掻き消されてしまうような、小さな声だった。
名前を呼ばれてとりあえず返事をするも、その続きが聞こえない。
ある程度乾いたかな、という所で、風量を弱める。
「…何かあった?」
漸く聞こえたその声に、思わずドキリとした。
この質問は、非常に漠然としている。
しかし、“何か”を持つ者にとっては、多くのことを聞き出すのに最適な問いかけでもあった。
相手がパクノダであれば、既にいくつもの情報を得てしまっているだろう。
「…何か…ですか?」
「迎え、急いでほしそうだったから」
誤魔化すことすら、許してもらえないようだ。
あまりにも的を射た言葉に、コウは苦笑を浮かべた。
「………そうですね。急いでもらえて、助かりました。正直…いっぱいいっぱいだったから」
カチリ、とドライヤーのスイッチを切れば、室内は一時的な無音になる。
「…あの場所にいることが…ここにいることが、怖くて」
団員と知り合ったことが怖いわけではない。
彼らとの会話を楽しんでいた自分もいる。
しかし、ふと冷静になってしまえば、過ぎる思考を止めることができなくて。
「また、世界に関わるのが怖くなった?」
イルミからの問いかけに息をのむ。
それは、以前コウが口にした言葉だったから。
「…そうですね。すごく、怖いです」
―――俺がコウを世界から隠してあげる。
かつてのイルミの言葉が脳裏によみがえる。
あの時も、彼はこうしてコウに優しい逃げ道を用意してくれた。
そして、ハンター試験の後、彼は確かにそれを実行に移してくれていたのだ。
コウの世界は、ゾルディック家とトレゾールという狭く小さな箱庭だった。
その中で過ごすうちに、いつの間にか、“知っている”ということを忘れていた。
優しい箱庭を飛び出すことを望んだのは、他でもないコウ自身だ。
けれど、こんな状況でありながら…イルミは、きっと。
「隠してあげようか?コウが望むなら」
コウの考えた通りに、彼は逃げ道を示した。
ここでコウが頷いたなら、明日と言わずにすぐにでも、彼は優しい箱庭の世界へと連れ帰ってくれるのだろう。
「―――いいえ、私が、望んだことですから」
関わらないと決めたのに、飛び込んで。
何も言わないと決めたのに、言付けをして。
矛盾しながらも、結局は物語の中に入り込んでしまっている自分に気付く。
きっと、この先何度でも、コウは矛盾と葛藤を抱えながらも、関わってしまうのだろう。
それならば、もう逃げてはいられないのかもしれない。
覚悟を決めたなんて格好の良いことは言えないけれど、それでも。
―――あなたが背負わなくていいわ。私の選択は、私だけのものよ。
そう言ってくれる、優しい人がいるから。
「逃げちゃいけないんです。少なくとも、今だけは」
見届けることは、自分の役目だ。
17.09.26