暗号解読シリーズ

「ああ、いたいた」

ドスドスと足音が聞こえてきて、声をかけられる前に振り向いていたコウはその人物に目を見開く。
この屋敷の中で足音を聞いたのは今が初めてであり、そして彼が出歩いている姿を見るのもまた初めてだ。
少なくとも、こうして単独で声をかけられるような親しい間柄ではない。

「ほらよ」
「え?あの…」
「あんたに返しておけって」

差し出されたそれを受け取ると、なじみのある重さが手の上に載った。
それは、彼女が使っているケータイである。
今になって気付いたけれど、そういえば昨日あたりからケータイを見ていなかった―――気がする。
連絡を取るのは主にイルミで、その次に店長くらいであり、その他の繋がりは薄い。
それに伴ってケータイに対する依存度も低く、なくても困らないものの中では割と高い位置にあるだろう。

「えーっと…?」
「言われたとおりに、機能が古くなってたから、アプデしておいたぞ。あと、便利なように色々追加して…」
「“言われたとおり”に…?」
「イルミからな。とにかく、返しておいたからな」

そういうと、元来た道を帰ろうと方向転換するミルキ。
お礼を、と思ったところで、自分が腕に抱えているものを思い出した。

「あの…!」

ふくよかな背中を呼び止めると、なんだよ、と不満げな視線が向けられる。
その視線に怯みそうになりながらも、腕に抱えていた籠にかけていたカバーを外した。

「パンを焼いたんですけれど、良かったらどうですか?」
「…パン?」
「パンです。変なものは入れてないですよ」
「入ってたって、俺たちに効くわけないだろ」

ふん、と呆れたような鼻息に、それもそうか、と納得する。
出来れば思い出したくなかったけれど、前にイルミから聞いていた。






―――うちの食事には毒が入ってるんだよね。

食後の時間を部屋で過ごしていたとき、あまりにもあっさりと告げられたそれに紅茶を噴き出すかと思った。

「毒…」
「うん。いつも平気みたいだから気にしてなかったけど、大丈夫?」
「………はい、特には」

出された食事はとても美味しかった。
あれに毒が入っていたのか、と考えるだけで胃のあたりがどんよりと重い気がする。

「…まぁ、お菓子で耐性ついてきてたのかな」
「お菓子も…」
「あとは、コウの念も関係してると思う。たぶん、纏をしてるだけで体内の自浄効果があるんだろうね」

彼の分析には納得できる部分もあり、それが自分を生かしているのだと思えば良い能力だったのかもしれない。
少なくとも、こうしてゾルディックで過ごすにおいては必須と言える能力だった。

「で、くれるのか?」
「あ、はい。ケータイのお礼に」

どれにしますか?という声と共に籠が近付くと、ふわりと焼きたての香りが鼻先をかすめた。
両腕で抱えるほどの大きな籠の中には、数種類のパンが入っている。

「どれでもいいのか?」
「えっと…これとこれだけ、できれば残してもらえると嬉しいです。イルミさんが好きなので」
「イルミの好みがわかるのかよ」
「わかりやすいですよ、慣れると。コーヒーと一緒に出すと喜んでくれますから」

イルミが喜ぶ姿など、想像しようとしても無理がある。
微妙な表情を浮かべたミルキは、変な女だと思った。

「あんた、喫茶店で働いてるんだったな」
「はい。ミルキさんも、良かったらコーヒー飲みますか?」
「………」

その提案に、ちらり、とパンを見下ろす。
まだほんのりと湯気を立てているそれは、確かに、美味いコーヒーとよく合うのだろう。
そんなことを考えると、何だか小腹が空いてきたような気がする。

「これをテラスに置いたら、すぐに用意しますから…良かったら、コーヒーと一緒にお部屋にどうぞ」

ミルキの視線の意味を察したコウはクスリと笑ってそう提案し、再び歩みを進める。
文句の声がないところを見ると、彼女の提案には納得したようだ。
コウの背中に続くようにしてテラスに出ると、既にその場にいたイルミがこちらへと視線を向けた。
無表情な眼差しが何かを訴えているように見えて、少し居心地の悪さを感じる。
しかし、何かを言うわけではなく、その視線はすぐにイルミ自身の手元へと落とされた。
どうやら、本を読んでいたらしい。

「お待たせしました。コーヒーを淹れますから、選んでいてくださいね」

籠をテーブルに置くと、そこに用意されていたお皿の一枚をミルキに手渡し、コーヒーのセットに手を伸ばす。
執事に頼んでいたため、途中までは準備が済んでいる。

「お前が出歩いてるのは珍しいね」
「…ケータイを返しただけだよ」
「ああ、できたんだ。上手くいった?」
「ああ、問題ない。あと、これ。言われたとおりに、組み込んでおいた」
「そう。ありがとう、助かったよ」

視線は本の活字を追ったまま、預けていたケータイを受け取りながらイルミがそう言った。
まさか、礼を言われるとは思っておらず、返そうとしていた言葉が抜け落ちる。
ぽかんとした様子に、彼らの傍らでコーヒーの用意を進めていたコウが首を傾げていた。

「…………」
「…パン、決まりました?」

湯気立つコーヒーを差し出すと、金縛りから解放されたようにハッと我に返った彼。
持っていた皿に3つ4つとパンを積み上げ、コーヒーと共にトレーに置いて足音荒くその場に背を向ける。
しかし、屋敷の中に入る寸前にぴたりと足を止めた。

「あ…」
「…?」
「ありがとな…!」

そうして、言い終わるが早いか、逃げるようにその場から立ち去った。
いつもの足音がなかったところを見ると、彼もやはり暗殺者なのだなと思う。

それにしても。
思い出すようにくすくすと笑うコウに、栞をはさんだ本を脇に置いたイルミが視線を向けた。

「どうかした?」
「いえ、思ったより、取っ付き難くない子だなぁって」

キルアほどわかりやすくはないけれど、少なくともイルミほど難しくもない。
こんな屋敷で育ってきているし、その上に滅多なことでは外にも出ない。
そのために、まさにお坊ちゃんと言った風である。
あんなに慣れない「ありがとう」を言われたのは初めてだ。

「喜んでもらえたみたいで良かったです」
「ミルキのこと、苦手だと思ってたけど」
「それでさっき、驚いていたんですか?」

さっき、というのはテラスに姿を見せた時のことである。
ミルキにとっては何かを訴えているように見えていたあの表情は、実は驚きであり、コウはそれに気付いていた。

「苦手なのは…えっと…あの部屋、ですね。無数の目に見つめられているみたいで、落ち着かなくて」

夢に出てきそうです、と困ったように笑う彼女。
部屋、と言われて以前、彼女を連れ立ってミルキの部屋を尋ねる用事を済ませたことがあったと思い出す。
恐らくは、その時のことがトラウマになったのだろう。

「ところで、用意は済ませた?」
「用意…あ、9月の話ですか?そうですね………大体は」
「まぁ、足りないものがあれば向こうで買えばいいけどね」
「あるものを買う必要はないです。お金は大事にしないと」
「まだ足りない?じゃあ、はい」
「“まだ”って何が―――――…って、これ」

はい、と軽やかに差し出されたそれを、条件的に受け取る。
カード上のそれは、間違いなくカードである。

「作っておいたから、好きに使っていいよ」
「落としたら恐いものを渡さないでください」
「大丈夫。うちが使ってる口座の銀行だからセキュリティも万全。
もし落としたとしても、万が一使われたりしたら店長クラスの首が飛ぶだけだから」

ついでに、使った人間も。
なんて怖いことを何でもないことのように軽く語るイルミに、眩暈がした。
首が飛ぶ、というのは素直に職を失うということか、それとも物理的な―――それ以上は考えることを放棄する。

「ハンター証か、このカードか、どっちを持つ?」
「え、何その究極の選択…」
「ハンター証は再発行できないけど、こっちはさっきも話したようにセキュリティは万全だよ」

こうなったイルミはどちらかを選ぶまで引かないと、コウは学習している。
渋々、渋々ながらもカードを受け取り、悩みに悩んで個人の財布の中に入れた。
財布の価値が一気に跳ね上がった気がするのは気のせいではない。

カードだけに意識を取られていたコウは気付いていなかった。
その表面に刻印されていた名前が「コウ=ゾルディック」であることに。

17.03.25