暗号解読シリーズ
ハンター証を受け取れば、何かが変わるような気がしていた。
確かに、コウの生活の中で変化したことはある。
彼女の生活基盤がゾルディック家へと移り、仕事先の行動範囲が広がった。
任されることも増えてきて、最近では彼女の淹れる紅茶が美味しいとリピーターも増えている。
けれど、彼女が漠然と想像していたほどに何かが大きく変わることはなかった。
それでも、地に足がついた。
ここが自分にとっての“現実”なのだと受け入れ始めていた―――それは、ある意味では大きな変化だった。
「コウさん、良かったら一緒に来ないか?」
この部屋でクロロと会うのは、これで何度目だろうか。
見た目だけなら見目麗しい優男だが、その中身がとんでもないということは十分に理解している。
それなのに、こうしてテーブルをはさんでコーヒーを囲んでしまうあたり、自分の危機感はどうかしている。
そう思いながらも、この不思議な友人とのひと時はコウにとっては中々に楽しい時間だと言えた。
彼の話術が巧みすぎる―――コウは責任を転嫁した。
「…誰と、どこにですか?」
そう、彼は話術が巧みである。
自分の思うように話の方向性を運ぶのがとてもうまく、何度それに引っかかってしまいそうになったかわからない。
彼が本気を出せば、恐らくは念能力の隅から隅まで喋らされてしまうのだろう。
それがないと言うことは、彼はまだまだ本気ではないらしい。
クロロとの会話の中では5W1Hを明確にすることが重要であることは既に学んでいる。
訝しげに問い返す彼女に、彼はクスリと笑う。
「賢くなったね」
「…お蔭様で」
「イルミと、ヨークシンに」
「イルミさんと?お仕事ですか?」
ヨークシン…聞いたことがある町の名前なのだが、どこだっただろう。
そんなことを頭の片隅で考えつつも、イルミと言う単語に意識を引っ張られる。
「そんなところかな。イルミに俺から依頼をしていることがあってね。
せっかくだから、一緒に来たらどうかと思って。あの町で大きな催し物があるんだよ」
「そうなんですか」
「コウさん、あまり遠くに出かけたことがないって言ってただろう?
イルミの仕事中は俺の傍にいればいいから、一緒に来たらどうかと思って」
催し物の中身がどんなものなのかはわからないけれど、気にはなる。
確かに、イルミと一緒ならば彼は連れて行ってくれるだろうか。
そういう頼みごとをしたことがないから、彼がどう答えるのかはわからない。
「何があるんですか?」
「オークションだよ。行ったことある?」
オークション、なんて言葉でしか知らない。
そう言う類のものは金持ちの道楽だと言うイメージだ。
遠出したことはないけれど、オークションはコウには無縁のような気がする。
「世界中からマニアや富豪が集まるからね。町を挙げたお祭りみたいな感じだよ」
「わぁ、そういう事ならお金持ちでなくても楽しめそうですね」
こちらに来てから、そう言ったお祭りのようなものにも縁がなかった。
こちらのお祭りはどんな感じなのだろう―――少しわくわくする。
そんな彼女の反応を見て、クロロは決まりだな、と笑う。
「イルミさんが駄目だと言ったら諦めます」
「大丈夫だと思うよ。ああ、ちなみに…オークションで競り落としたいものはある?」
「そんな富豪に見えますか?オークションには興味ないです」
「そう、良かったよ」
オークションがあるからと誘うのに、良かったとは何事か。
首を傾げる彼女に、彼は何でもないよと答える。
こういう時の彼は何も答えてくれないと学習しているコウは、それ以上の追及をやめた。
この時点で、コウは気付いていなかった。
『ヨークシン』、『オークション』、『幻影旅団』
これらのキーワードから、何かを連想することができなかったことを。
「ヨークシンに?」
「はい。クロロさんに誘われて」
「―――――――うん、いいよ」
コウからこうして何かを頼んでくることは珍しい。
即答で許したいと思う反面、クロロからの依頼内容を考えればヨークシンで起こることにはある程度の予測が立つ。
彼女自身の安全と、彼女の希望とを両天秤にかけて考え、大丈夫だろうと許可を出した。
「何だかとっても長い間ですね」
何か問題がありますか?と問いかけるコウに、イルミは伝えるか否かを考える。
イルミの返事を待つ彼女を見下ろし、スッと耳にかかる髪を手で梳く。
その奥に見えたピアスに満足して腕を下ろす。
彼のこの行動はよくあることで、コウ自身が特に何かを気にすることはなかった。
「まぁ、いいよ。俺の仕事中はクロロと行動できる?」
「あ、はい。それは大丈夫だと思います」
「なら、仕事が終わったら連絡するから」
「わかりました。…あの、危ないんですか?」
そんなコウの問いかけに、そもそも幻影旅団が関係していて危険がないと考えることが不思議だった。
恐がりなのに不思議な感覚を持っているな、と思う。
彼女は一度懐に入れた人間を信用しすぎる。
この調子でクロロに気を許しすぎるのは、果たして彼女にとってメリットなのだろうか。
少しだけ考え、いざとなれば自分が引き離せばいいかと自己完結した。
「トレゾールはどうするの?」
「一応、話をしてありますから…イルミさんの許可が下りるなら、休んでも構わないと。
あぁ、そういえばその件で店長がイルミさんに連絡を入れると言っていました」
来ていました?と首を傾げるコウに、ポケットに入れたままだったケータイを取り出す。
確かに、数件の未読メッセージの中に彼からの物もあった。
―――この休暇が俺からの祝いだ!新婚旅行みたいなものだろ?
豪快な彼の笑い声が聞こえてきそうなメール内容だった。
「店長からのメール来てました?」
「うん、祝いだって」
「何かおめでたいことが…あ、ハンター試験合格?倍率から考えると確かにおめでたいですね」
あの程度のものがイルミにとって障害になるはずもない。
だが、コウは自分の事のように「おめでとうございます」などと笑う。
つくづく不思議な思考回路だ。
そんなことを考えながら、ソファーに投げ出されていたコウの手を取る。
武器など握る機会はほとんどないのだろう。
たこやまめもなく、柔らかく小さな手。
「イルミさん?くすぐったいです」
「楽しみ?」
「…はい!」
そう笑顔を返す彼女との関係は、ハンター試験の前と比較してもそう変化はない。
シルバやキキョウは、こうしてイルミが自ら触れようと思う相手を見つけたことを喜んでいた。
それだけにキキョウですら、今のところはこれ以上現状を急かすようなことは何も言ってこない。
それはイルミ本人にも言えることであり、何も変わらない彼らにコウもまた、ぬるま湯に馴染んでしまっている。
「…最近」
「?」
「あんまり怖がらなくなったね」
一体何が彼女をあそこまで怖がらせていたのか、今となってはわからない。
彼女の行動範囲はトレゾールと屋敷の往復のみに限られていて、それなりの距離ではあるが狭い世界を生きている。
それが彼女の望んだことであり、イルミが彼女の望みを叶えることは決して難しくはなかった。
イルミは約束した通り、コウが望む以外の全てから彼女を隠した。
いつのことだったか、彼女から怯えが消えていたことに気付いた。
まるで、“何か”を忘れてしまったかのようだと感じる。
あれだけ関わることに怯えていた彼女が、まさか箱庭を抜け出すことを望むとは思わなかった。
しかし、この変化はイルミにとっては望ましいものだ。
“何か”に怯えて暮らすよりも、自由に生きればいいと思うから。
16.09.23