暗号解読シリーズ
自らが望んだわけではない―――断じて、違う。
ごくごく普通の、知る人ぞ、と言うコーヒーが美味しい喫茶店で働いているつもりだった。
それなのに、仕事用の個室の中で、男性と二人きりでコーヒーを飲んでいる。
そしてその男性は―――
「………あの」
「うん?名前でも知りたくなった?」
覚悟はできたのかな、と笑うその顔は、相変わらず楽しそうだ。
そう言うわけではないので、返事に困っていると、彼はにこりと微笑んで話題を変えてくれる。
「別の話をしようか。例えば…コウさんの念の話とか」
「…念、ですか」
「そう、念。この部屋に入る許可が下りたってことは、コウさんも覚えているって事だからね」
「ああ、ここってそういう基準なんですか?」
質問を返せば、彼は、さぁ?と答える。
正しい答えを持っているわけではないようだが、それもまた条件の一つと言う事なのだろう。
「コウさんは割と良い能力を持ってそうだよね」
「どうしてそう思うんですか?」
「勘、かな。ねぇ、コウさんは―――」
その時。
ノックも何もなく、突然ドアが開かれた。
ガチャッと開くそれに、彼の声と唇の動きに集中していた神経がプツリと途切れる。
大げさなくらいにビクリと肩を揺らしたコウに、その一挙一動を見守っていた彼は声をあげて笑った。
「あははは!驚きすぎだよ!面白いなぁ」
ケラケラと笑いながら、涙を拭う仕草を見せる。
そんなにも笑うことはないだろうと思うけれど、第三者的に見ればそうなのかもしれない。
む、と唇を尖らせ、頬の熱を逃がすように黙り込んだ。
「もう来てたんだね―――クロロ」
やっぱりそうなのか!いや、そうだとは思っていたけれど!
コウの心の中を代弁するのであれば、こんな所であろう。
明らかにされた名前に、彼女はぐたりと脱力した。
それでも、入ってきたイルミが座れるようにと身体を奥に移動させるのは、最早条件反射なのかもしれない。
「はぁ、笑い疲れたよ。改めまして…クロロ=ルシルフルだ」
よろしくね、と差し出された手を素直に握ってしまう。
そうしてしまってから、ハッと我に返って項垂れるコウを見て、彼…クロロはやはり楽しげに笑った。
「それで、仕事は?」
「ああ、俺からの依頼を頼もうと思って。だが―――いいのか?」
ここで話してしまって。
ちらりと視線を向けられるも、項垂れたまま何かを呟いているコウには、二人の会話は届いていないようだ。
そうだとしても、仕事の内容を聞かせられないと言うならば、彼女がこの場に居ることは問題がある。
「いいよ。別に隠してない。仕事の話を聞きに来たのはついでだし」
「なるほど、こっちがついでか。それなら、続けようか」
ヨークシンだとか、暗殺だとか。
右から左へ流れていく言葉の中から、嫌でも気付いてしまう。
「…と言うことで、頼めるか」
「うん、いいよ。報酬は、その半分でいい」
「そうなのか?随分親切だな」
「その代わり、コウの念能力は駄目だよ。クロロは知る必要もない」
突然、自分の名前が話題に上がった。
手持無沙汰にカップを弄んでいた視線が彼らを見る。
イルミはクロロを見ていて、クロロはコウを一瞥した。
その顔に、相変わらず楽しげな表情を浮かべたまま。
「…盗ろうとは思ってない。彼女の人間性も含めて、選んだ能力に興味があった」
「!」
そうだった、この人の能力は、そういう能力だった。
言われて思い出す程度に記憶は遠のいてきてしまっている。
危機感のなさに蒼褪めるコウの隣で、イルミが再度「駄目」と繰り返した。
「コウが能力を失うようなことがあれば、一番にクロロを疑うよ」
「大丈夫だ。それはないと誓おう。ゾルディックを敵に回すのは厄介だからな」
「ならいいけど」
そういうと、前置きなく立ち上がるイルミ。
自分はどうするべきなのだろうと見上げるコウに、帰るよ、と一言告げた。
半ば条件反射的に立ち上がり、既に歩き出しているイルミを追う。
ドアを抜けるところで振り向き、当然のように見送っていたクロロを見た。
「あの…えっと………“またのお越しをお待ちしています”」
何を言えばいいのか、悩んだ末に唇を滑り落ちたのは、知らなかった時と同じ、店員と客の別れの言葉。
何だか場違いな言葉にも思えて、逃げるようにドアの向こうへと急ぐ背中を飲み込み、ドアが閉ざされた。
「………ククク…」
あの反応を見る限り、幻影旅団を知らないわけではないのだろう。
それなのに、最後の最後、悩んだ末に言う言葉がアレか、と。
「…本当に、面白いな」
お人好し、とはまた違う。
彼女は、自分の感覚に忠実だ。
周囲の評価や本質ではなく、彼女自身の見たもの聞いたことを信じている。
彼女がそうして無防備に、そして危機感なく生きていられるのは、イルミの存在があるからなのだろう。
コウがああして自分なりに生きていることそのものが、二人の信頼関係を表していると思えた。
「何が、“あの”ゾルディックをそこまで変えさせるのか…不思議だな」
そう呟き、クロロもまた、用がなくなった部屋から退室する。
次はいつ、この店に来ようか―――そんなことを考えている自分もまた不思議だな、と笑った。
「イルミさん、どちらに…?」
「帰るんだよ。ああ、荷物なら飛行船に運ばせたから」
「…荷物?」
何だか、会話のキャッチボールが上手くいっていない。
そしてこれは、自分にとって良くない方向性で話が進んでいるパターンだ。
それをヒシヒシと感じ、コウは彼との思考の足並みを揃えるべく、口を開く。
「どこに、帰るんですか?」
「家」
「…私も?」
「うん。大抵は俺が仕事帰りに寄るけど、無理な時は執事の誰かを寄越すから、勝手に帰らないように」
「………私、お店に戻ってきたんだと思ってましたけど…」
ゾルディックからの通いになるんですね…。
イルミの説明からそれを察し、遠い目で窓の向こうを見つめる。
迎えだなんて、申し訳ない―――そんな言い分は、大丈夫、の言葉か何かできっぱりと捨てられるだろう。
こうなったイルミを説得できるだけの言葉を持ち合わせていないことは、今までの経験から学んでいた。
試験が終わればゾルディックとは関わりがなくなると思っていた自分は甘かったと言わざるを得ない。
『いつの間に通いのバイトに?』
『イルミ坊からの要望でな。ゾルディック預かりのお嬢さんなら、言い分を聞かんわけにはいかないだろ』
メールの返信の速さから、自分の行動は筒抜けだったようだ。
もっともらしいことを言いながら、それを隠していた当たり、店長も共犯なのは間違いない。
イルミは必要がないから言わなくて、店長は面白いから黙っていた―――こんな所だろう。
「…迎えが厳しい時は、お店の部屋で休みますから…無理、しないでくださいね」
「うん、大丈夫だよ」
順応力ばかりが高くなってきている気がする。
16.05.21