暗号解読シリーズ

カラカラカラ、と店の玄関のシャッターが開いていく音を聞きながら、店の床にモップをかける。
店長が朝一番のお客さんのために挽いたコーヒー豆の香りが鼻孔をくすぐった。

「やっぱりいい香りですね」

大好きです、とふやけた笑顔を浮かべたコウに、店長は、そうかい、と笑った。





ゴンたちはもう、試しの門を開けられるようになっただろうか。
休憩時間のコーヒーに息を吹きかけながら、そんなことを考えた。
これ以上の関わりを持つつもりのないコウは、シルバへの挨拶の2日後、店に戻りたいとイルミに申し出た。
暫くは休みをもらっていたけれど、ただでさえハンター試験前から休ませてもらっている身だ。
普通に考えれば、住み込みの従業員としてはかなり性質の悪い部類に入るだろう。
一日でも早く仕事に復帰しなければ…そのためには、イルミと言う難関を突破する必要がある。
よし、と意気込み、満を持して相談を口にした彼女に、彼はあっさりと是を返した。

「仕事であっちに行くから、送るよ」
「…戻って、いいんですか?」
「戻りたくないの?なら―――」
「いえ、戻りたいです!お願いします!」

ハンター証を取ってしまえば、何をどうされるのか。
色々な想像を巡らせていたコウにとっては、予想外のことだった。
こう来たらこうだ!と昨晩練った計画が、その1割も必要とされることなく決まった、翌日の予定。

「(イルミさんはやっぱり優しかった…!)」

心配して損した!と頭の中に花を咲かせていたコウ。
その裏で決まっていた“あること”については、何も知らされていなかった。






「お、コウちゃん!久しぶりだなぁ!合格おめでとう」

もう、何人からそんなお祝いの言葉をもらったかわからない。
終始、ニコニコとお礼を述べていたコウは、いつも以上に上機嫌だった。
この店に来る客は、そのほとんどがリピーターだ。
新しい顔ぶれに出会う機会はあまりなく、それなりに長く勤めているコウでも十数人しか知らない。

「それにしても皆さん、耳が早いですね」

もうご存知なんですか。
湯気立つコーヒーをテーブルに置きながら、そう言ったコウに、彼はそりゃあな、と笑った。

「イルミが一緒で万が一はありえないだろ」
「そう…ですね」

つまりは、コウが無事にこの店に顔を出したという時点で、試験の合格は間違いないと判断されているらしい。
確かに、不合格だったなら情けなくてもう少しの期間、仕事には復帰できなかったかもしれない。
こうして仕事に復帰していること自体が、良い結果を証明しているのだ。

―――カラン、コロン。

また新たな来客だ。

「いらっしゃいませ」
「ああ、こんにちは。コウさん、合格おめでとう」
「ありがとうございます」

また一人、顔馴染の客が増えた。
笑顔と共にお礼を返し、席へと促そうとするも彼は緩く首を振る。

「今日は奥を借りるよ。いつものをお願いできるかな?」
「はい、かしこまりました」

そういって、慣れた足取りで店の奥へと続く廊下を歩いていく彼を見送る。
この店には、喫茶店の奥に二部屋の個室が用意されている。
そこは予約制になっており、基本的には待ち合わせで使われることが多い。
コウの担当はあくまでも店の中であり、個室は店長の管轄だ。
今日もまた、コーヒーの用意を進めている店長が運んでいくのだろうと、次の仕事を探す。
程なくして、淹れたての新しいコーヒーの香りが店の中に漂い始めた頃。

「―――ほい。頼んだぞ」
「…はい?」

乾いたグラスを食器棚に戻していたコウは、店長からの言葉に疑問符を返した。
湯気立つ二つのカップと、その中を満たす黒いコーヒーと、カフェオレ。

「そろそろだろうからな。今日は上りにして、一緒に一服して来いよ」
「え、でも…私、あの個室には…」

入ったことがない。
そう、例え、掃除の一つすらも任されなかったのだ。
そのすべてを店長が一人でこなしてしまっていて、中がどうなっているのかはわからない。
戸惑うコウを横目に、店長はニヤリと笑った。

「ああ、今日からは良いんだ」

冷める前に行っておいで。
そうして、背中を促されて、何が何だかわからないままに廊下を進んでいく。
お疲れさん、と常連客からの労いの言葉をかけられたことにすら、気付くことなく。







普段はホールの仕事をしているから、飲み物を手にドアに阻まれることはない。
二つのカップが乗ったトレーを片手に持ち替えて、ドアをノックする。

「どうぞ」

コウが何かを言う前に、中からの返事をもらってしまった。
気を取り直して、とカップを揺らさないよう、ドアノブに手をかけた。

初めての個室。
どきどきと踊る心臓にごくりと唾を飲み、その一歩を踏み出した。
ホールとは違い、硬めのソファーとテーブルが用意されたシンプルな室内。
少しだけ格式の高い応接間のような印象と言えばいいだろうか。
お洒落なインテリアなどは一つもなく、どちらかと言うと事務的な空気が強い。
個室を使う客の意図はどこにあるのだろう―――。

「店長も人が良いね。コウさんも休憩?」
「あ、はい。ご一緒してもいいですか?」

迷う素振りもなく「もちろん」と応える彼は、大層女性に人気なのだろうと思う。
目の保養だなあ、と感心する。

「ようやく許可がおりたんだね。見たところ…今日が初めてなのかな?」
「はい、今日になって…だから、ここが何の部屋なのか、さっぱりで」
「ああ…普通の店の個室と言えばワンランク上を想像するよね。…想像通り、ここは“そういう部屋”じゃないよ」

そうして、悪戯に笑いながらコーヒーを少し。
自分の魅せ方をよく理解している人だ。

「ここは、仕事の部屋だよ。彼は情報屋と仲介屋をしているからね」

さぁ、どんな表情を見せてくれる?とばかりに、コウの反応を窺うような彼の好奇心に満ちた眼。
この場所を訪れる人間が求めるのは、美しい内装や美味しい料理ではない。
それを前にして、コウはその唇が紡いだ言葉の意味を整理する。

「…普通、のお店じゃなかったんですね…」
「コウさんの言う“普通”が何を示すのかはわからないけれど。まっとうな客ばかりじゃないことは確かだね」

俺みたいに、と笑う。
コウからすれば、初めて開いた扉の先が未知なるものだったという感覚。
しかし、常連の客からすれば、既にそこに足を踏み入れていながら何を今更…と言ったところか。
気付かないにもほどがある―――だって、ヒントはあちらこちらに散りばめられていた。

「だから、お客さんがハンター協会の会長や、名高い殺し屋…」
「―――有名な盗賊…とか?」

続けられた言葉に、落とした視線を持ち上げる。
相変わらず、悪戯が成功したような笑顔は崩れていない。

「…有名な、盗賊…?」
「そう。知らない?」
「………あの、もう聞かなかったことにします」

現実逃避も甚だしい。
彼の笑顔から逃げるように視線をそらし、温かいカフェオレを喉に通す。

店長が淹れたカフェオレは、やっぱり美味しい。

16.03.31