暗号解読シリーズ

背中から包み込まれる感覚には、覚えがあった。
目を開いた先に、驚愕の表情を浮かべるキルアがいる。
彼の鋭利な手は、力強くコウを抱きしめるその腕に中ほどまで突き立てられていた。

「あ、に…」
「コウ、怪我は?」

小さく震え、掠れる声を遮るように、イルミの声が重なる。
目の前の光景に呆然としていたコウは、その声により現実に引き戻された。
ハッとした表情で、飛散した冷静さをかき集めて、自らの無事を拙く伝える。

「そ、なら良かった」

そう答えると、イルミは埃でも払うかのような軽い仕草でキルアの手を腕から抜き去る。
バランスを崩して後ろへと踏鞴を踏んだ彼を追って、イルミがその細い首を掴んだ。
跡が残るほどの強さではないのに、重くのしかかる圧力で呼吸が阻害される。
ぶわりと噴き出す汗をそのままに、キルアは恐怖に表情を凍らせてイルミを見上げた。

「殺気を向ける相手を間違えるな。キルでも許さないよ」

どれほど過酷な訓練の中でも、こんなにもはっきりとイルミからの殺気を浴びたことはない。
先ほど、ゴンを殺しに行くと言ったイルミの前に立ち尽くしていた時とは、比べ物にならなかった。

二度目はない―――音なき声が、キルアの脳の深いところまでしっかりと絡みついた。









「この場合、コウが失格になるのかな?」

誰も動けない空気の中、イルミがそう問いかけたのはネテロだ。

「…そもそも、キルアの乱入が事の原因となるわけじゃが―――」

そうして長いひげを撫でたネテロの視線は、赤く染まるイルミの腕へと向けられている。
その視線によってイルミの怪我を思い出したコウが、今更に彼の腕の中を抜けようともがき出す。

「死に至らしめてはおらぬが…その殺意は明白じゃな」

イルミが念能力者でなければ、腕だけではなくその身体を貫くには十分な一撃だった。
コウ自身がそれを防御したかどうかは別として、その殺傷能力は説明の必要もなく。
その時、ネテロの結論を待たずにキルアが動き出した。
赤く染まる手をぶらりと下げ、ぽたぽたと血痕を残しながら扉へと歩いていく。
そして、彼は何も言わずに扉を潜り―――姿を消した。

「…コウ殺害未遂と試合放棄によりキルアは失格。残りの全員を合格とし、最終試験を終了とする」













「イルミ、腕…!それに、キルアが…」
「大丈夫。止血してあるし、ちゃんと防御してる。キルの事は放っておいていいから、落ち着きなよ」

深呼吸でもして、と言われて、コウは喉を震わせながら息を吸う。
何をどうしようと思ったわけではない。
ただ、キルアがボドロを殺してしまうことを防げたらと思っていた。
だから、彼の殺意が自分に向いていたことに、少なからず安堵したのだ。
では、ボドロに変わって死ぬつもりだったのかと問われれば―――答えは、わからない。
死にたかったわけではないけれど、あの瞬間に念で防御しようとしていたかと言えば、NOだ。
これが、先のことなど何一つ考えもせず、ただ自分で決めて動いた結果。

「ごめんなさい、私…」
「謝らなくていいって言ったでしょ。俺が勝手にやったことだ」
「でも…」
「移動するらしいから行くよ」

怪我をしていない方の手で今にも泣きだしそうなコウの背中を押す。
促されて歩き出した彼女は、床に点々と残る血の跡を見て、また表情を歪めた。
気にするなと言っても、彼女はそれをやめないのだろう。
せめて歩みを止めないようにとその背を促す姿は、キルアを追い詰めていた彼とはまるで別人だった。

「…何が、どうなってやがるんだ…?」
「…それは、答えを求めているか?残念だが、私にも理解できそうにない」

だが、今は行かなければ。
歩き出した全員の胸に、砂を噛んだような不快な感覚だけが残されていた。










別室へと場所を移し、合格者に向けた説明が進められていく。
合格できた、ボドロの命も助けられた―――それなのに、後味の悪さが舌に絡みつく。
説明を右から左に聞き流しながら、コウは乾いた喉で息を吐く。

「(キルアは大丈夫。ゴンたちがあの家から連れ出してくれるから…大丈夫)」

シナリオは変わっていない、だから大丈夫なのだと。
言い聞かせるコウの脳裏に、キルアのあの眼が過る。
人の信頼を裏切るのは、どうしてこんなにも心が痛むのだろうか。
クラピカとレオリオが異議を申し立てるその声も、ゴンが入ってきたからの諍いも。
そのすべてが、どこか違う世界の音のように聞こえていた。

「コウ」

解散となり、それぞれが席を立つ。
その中で呼ばれた自分の名前に、ようやく地面に足がついた感覚を得た。

「…コウも、一緒に行こうよ」
「おい、ゴン。コウは…」
「キルアがコウを殺そうとしたのは理由があると思うんだ。だから、ちゃんと話をしないと」

だから、一緒に行こう。

ゴンの真っ直ぐな目に、コウは緩く首を振る。

「私があの子の期待を裏切ったの。ギリギリの所で縋りついてきた手を、振り払った。
私を殺そうとしたことを責めるつもりはないけれど…会えないわ」
「コウ、行くよ」

彼女の会話を遮り、イルミが歩き出す。
それを見て、コウもまた彼に続こうと身体を動かした。

「イルミ!コウまで…」
「ゴン。これは私の意思だから…気になるなら、彼らに聞いて」

たぶん、状況は理解していると思うから。
それだけを言うと、彼女はイルミの後を追って部屋を出て行った。

「………まぁ、コウに関しては…自分の意思だろうな」
「ああ。理解し難いことだが、イルミがコウを守ったあの状況と、その後の二人を見る限り間違いはないだろう」
「…守った…んだね」
「…あの状況でそれ以外考えられねぇよな」

レオリオ自身、それが当然だと納得できているわけではないけれど。
気が付いたらコウの目の前にキルアがいて、いつかに見た凶器の手が、彼女へと伸びていた。
そして、次の瞬間には彼女はイルミの腕の中にいて、キルアの手はイルミの腕に突き刺さっていたのだ。
あれを守ったと言わずして、どう表現すれば正しいのかわからない。

「わからないんだ…コウは、イルミのやり方に納得できてるのかな?」
「親しい間柄であることは間違いないだろうが、すべてを容認しているかどうかはわからないな」

少なくとも、試験中に見てきた彼女の姿が全て偽りだったとは考えにくい。
そう答えたクラピカに、ゴンはそうだよね、と頷く。

「俺も、コウがそういうのが平気な人だとは思えないんだ」
「理由は?」
「勘!コウの持つ空気は、強いけど優しいから」

ゴンは、時折、彼女が何かを考えるように遠い目をしていたことに気付いていた。
寂しげにも悲しげにも見えるその目は、何を見ていたのか。
ゾルディックの考えに染まっていないと断言するには足りないかもしれないけれど、ゴンは彼女を疑わない。
迷いのない言葉に、レオリオとクラピカが苦笑した。

「ま、ゴンがそう言うなら…俺も、コウには助けられたし」
「ああ、そうだな。少なくとも、コウがレオリオに負けていなければ、最終試験では死人が出ていたかもしれない」
「!そーだよな!俺がぶっ刺されてた可能性だってあるんだよな!コウ様様じゃねぇか!」
「…今頃気付いたのか…」

16.02.26