暗号解読シリーズ
ホワイトボードにかけられた白布が取り払われる。
そこに記された、最終試験のトーナメントに一同が息を飲む。
その中で一人、コウだけは驚くでもなくそのボードを見つめ、ネテロからの説明を半分聞き流していた。
彼女の数字の記されたその場所、これから起こるであろう出来事。
人知れず、わずかに口角を持ち上げるその小さな笑みを見た者は、誰もいなかった。
「正直、気が乗らねぇな…」
レオリオの言葉に、クラピカはそうだろうなと頷く。
いくらボードを眺めたところで、その数字の位置が変わるわけではない。
ヒソカとレオリオの数字の間に、コウの数字が存在していた。
「しかし、そう言っている場合ではないと理解しているのだろう?彼女は…」
「ああ、たぶん俺より強い」
あんなにか弱いのにな。
やりきれない思いを吐き出すように奥歯を噛み締める。
「恐らく…彼女は交友関係こそ広いが、心根が優しい。そこに付け入れば隙はあるだろうが―――」
「人としては推奨しかねる、ってか?俺もそんなのはごめんだぜ」
「…だろうな」
短い付き合いではあるが、レオリオと言う男の人間性は認めている。
女性に対してではなくとも、人に対して曲がったことはできないだろう。
彼の返答に小さく安堵し、コウに視線を向ける。
「(しかし―――)」
無表情にボードを見つめていた横顔が、彼の方を向く。
彼女は人当たりの良い笑みを浮かべ、また前方へと視線を戻した。
「(もしかすると、彼女は…)」
憶測の域を出ない以上、レオリオにそれを告げることは憚られた。
けれど、自分の勘はそう間違っていないのでは―――何故か、そう確信している。
進んでいく―――コウの知る、シナリオの通りに。
痛めつけられるゴンを見て、心が痛まなかったと言えば、きっと嘘になる。
けれど、彼がどうなるのかを知っているからこそ、冷静でいられた。
もし知らなかったなら、この場所に立っていられなかったかもしれない。
第2試合、第3試合、第4試合を経てなお、シナリオに変化はない。
ボドロが敗北を宣言したその時、既にコウの心は決まっていた。
「第5試合、コウ対レオリオ!」
前へと促された二人がその場で向かい合う。
やるしかない、そう決めたレオリオは、ごくりと唾を飲みつつ開始の合図を待つ。
一方のコウは、感情の読めない無表情で構えを取ることもなくその場に立っていた。
「始め!」
立会人からの合図に、レオリオがぐっと重心を低くして構えを取る。
その様子を見て、コウもまた、ゆっくりと動き出した。
右手を小さく持ち上げて、挙手の姿勢を見せる。
「参りました―――負けを認めます」
レオリオがその言葉を理解したのは、たっぷりと数秒の沈黙を得た後の事だった。
「―――はぁ!?ちょ…ちょっと待ってくれよ!」
「おめでとう、レオリオ」
「いやいや、おかしいだろうが!普通に考えて、負けるのは俺だろ!」
納得できねぇ!と声を上げる彼に、コウは初めてクスリと表情を変化させた。
「だって―――あなたはゴンとよく似て、まっすぐだから。負けず嫌いでしょう?」
「………だから?」
「私が、あなたの命を取らずに、負けを宣言させることは難しいと思うわ」
もちろん、命を取ったりはしないけれど。
心のうちに秘めたその言葉が表に続くことはない。
「…薬のお礼だと思っておいて。アレのお蔭ですごく楽になったの、ありがとう」
「お礼って…どんだけお釣りがくると思ってんだよ、くそ…!」
あー!!と吠えるように大きく声を上げ、ガシガシと頭を掻く。
納得できない、納得できない―――けれど、恐らく彼女はその意思を曲げてくれないのだろう。
「本っ当にいいんだな!?」
「ええ」
「――――っ、なら、この勝ちは…受け取っとく」
奥歯を噛み締める様にして、とても不満げに口を尖らせた。
そんな彼の様子に、堪え切れないと笑い声を零すコウ。
一頻り笑ったところで、改めて立会人に向き直る。
いいんですね?と言う確認の目線に大きく頷くコウに、立ち会人もまた、頷いた。
「勝者、レオリオ!」
その声を合図に、二人が試合の場を離れる。
「ったく…少しはやってくれねぇと、格好がつかねぇじゃねぇか」
「いいじゃない。あなたはライセンスが必要なんでしょう?素直に喜んでおいて」
「そういう問題じゃねぇっての!お前だって必要だろうが」
「ええ、そうね。まぁ、他で頑張るわ。あなたを痛めつけるのは気が引けるの」
じゃあ、と言い残し、コウはレオリオの元を離れていった。
「コウ!」
レオリオに呼び止められ、振り向く彼女。
「…ありがとな」
真っ直ぐだなぁ、と思いながら、彼からのお礼に小さく頷いた。
そうして進行方向へと姿勢を戻す。
「…こちらこそ」
その呟きが誰かに拾われることはなかった。
4日ぶりに見たイルミの本来の姿に、少しだけ安堵した。
その姿を見るだけで安心してしまうほどの時間を共有してきたということなのだろう。
一種の刷り込みのようなものなのかもしれないな、と思いながら、イルミとキルアの試合を見つめる。
「イルミさんって…キルアの事、大好きですね」
思わず呟いた言葉に、そうかな、と無表情が返ってきたのは、もう随分と前の話だ。
事あるごとに話題に登場するキルアの存在は、コウの知るキルアとは少し違っていてとても新鮮だった。
イルミがキルアに対して色々と根回しをしていることを知っている。
けれど、それが兄からの愛情なのだと―――少なくとも、コウ自身には納得できていた。
過剰だという点は、彼と言う人間に触れる中で麻痺してしまった部分なのかもしれない。
「コウ!お前からも何かないのか!?キルアを可愛がってただろ!」
何か、何か手はないだろうかと。
そうしてその矛先をコウに向けることは、ある意味では正しい行動だった。
この場においてイルミに対しての強い発言力を持つ者は、コウ以外にはいない。
彼女にその自覚があるかどうかは別として。
もちろん、彼らの前でイルミと接触していなかったのだから、レオリオは二人の関係を知る由もないことなのだが。
「―――」
不意に、その耳でコウの名を拾ったイルミの視線が、彼女を見た。
それを追うように、キルアの目も彼女を捉える。
何かを言うべきなのか、でも、何を言うべきなのか。
薄く開いた唇から紡ぐべき言葉が見つからず、コウは悲しげに眉を顰めた。
「私には、何も言えないわ」
目に映るものだけが、真実だとは限らない。
けれど、それを伝えたところで、理解を得ることは難しい。
だから、コウは口を噤むことを選んだ。
キルアの目が僅かに見開かれ、そこに浮かんだ感情が失望に近かったことにも気付いていた。
もしかすると、彼女が助け舟を出してくれると思っていたのかもしれない。
彼女ならば、あるいはと―――少しだけ心に浮かんだ希望を、打ち砕いてしまったのだろう。
悲しい、苦しい…けれど、ここは唇を噛み締めてでも、コウの知るシナリオで進んでほしかった。
キルアがそう遠くない未来に、ゴンと共に歩みだせると知っている。
その未来が、何かの拍子に変わってしまうこと…それだけを恐れて、縋るような眼差しを裏切った。
ぬけがらのようなキルアを横目に、コウは促されるままに移動する。
彼一人がどうなろうと、ハンター試験は進んでいくのだ。
その無情さは、ここまで試験をクリアしてきた人間であれば、もう理解できているだろう。
ボドロの怪我を理由に延期されていたコウとの試合。
本来であればレオリオが立つべきその場所に、彼女は立っていた。
どくん、どくん、といつもよりは少し大きな心音は、これからの事に緊張している所為だろうか。
失敗は許されない。
恐らく、キルアが動くのは一瞬の事だから。
「―――始め!」
目の前のボドロ以上に意識していたキルアの気配が、動くのを感じた。
そこから先は、まるで全てがスローモーションであるかのようだった。
キルアの気配が揺れ、コウもまた、床を蹴って移動しようとする。
しかし、彼はボドロの背後を取るのではなく、コウの目の前にいた。
白銀の柔らかい毛並みの奥に見えた、冷たい目。
その目に、薄い水面の膜が揺れていたように見えたのは、コウの錯覚だろうか。
「(そう…あなたは、私を選んだのね)」
全てがゆっくりと進む世界の中で、彼女の思考は冷静だ。
鋭く尖るキルアの爪が胸元へと迫るその瞬間―――コウは、小さく微笑んだ。
そんな彼女にハッとしたように目を見開くも、突き出した腕が止まることはなく。
コウは静かに瞼を伏せた。
「キルアッ!!」
そう声を上げたのは、果たして誰だったのか。
ポタリ。
赤い血が、床の上に落ちた。
16.02.05