暗号解読シリーズ
「次はコウの番か。足は楽にしてよいぞ」
「よろしくお願いします」
通された一室で、久しぶりの畳に少しばかりの感動を覚えつつ、ネテロの前へと腰を下ろす。
お互い、この試験よりも前に顔馴染と言うこともあり、室内は穏やかな空気に満たされている。
「最近はトレゾールに行ってもダンテしかおらんで寂しかったぞぃ」
「すみません…修行をつけてもらっていて」
「ほぅ、修行…とな」
呟くようにそう答えたネテロの視線が、コウへと向けられる。
二次試験の時にも思っていたことだが、この数ヶ月で彼女は随分と成長した。
彼女の才能を伸ばせるだけの師に巡り合えたのだろうということは、想像に難くない。
「………」
「………」
「………」
満足げに頷くネテロの眼差しが、孫の成長を喜ぶ祖父の物に似ていて、思わず口を噤んだ。
そうして過ごした数秒の後、さて、と空気を破ったのはネテロの方だった。
「ハンター試験を受けた目的を聞こうかの」
目的。
コウの心臓が、ドクン、と疼く。
一時を共にした彼らの、強い眼差しを思い出した。
彼らと同じものを目指せるほどに、自分はちゃんとハンター試験を進んできただろうか。
答えは、否。
いつだってイルミやヒソカに助けられ、彼らに甘えてきた。
受けると決めたのは自分なのに、他人を理由にして試験に向き合うことから逃げてきたのだ。
わかっている―――私は、弱い。
「…私が…」
―――コウにはちゃんとここにいるための“理由”が必要だと思うから。
「…私が、私として…ちゃんと、立つために―――」
ここが紙面の世界ではなく、自分自身が生きる現実として。
この世界に生きているのだと、そう理解するために。
「―――前を向くために、必要だから…です」
他人事ではない、ゴンのための物語ではない。
他の誰でもなく、自分自身の世界として、前を向いて進むために。
初めて、本気でそれを望んだ。
「…おぬしは、時々未来でも知るような遠い目を見せるのぅ」
「―――、」
「この世界において、未来が見えることはそう珍しいことではない。知っておるじゃろう?」
「…あ…」
「おぬし一人がどう動いたところで、未来は決まっているものではないのじゃ。抱え込んでも得はないぞ」
霧が晴れたような感覚だった。
コウが誰にも話せなかったことを、彼は見逃さなかった。
もちろん、彼女が異世界人だと理解したわけではないだろう。
けれど、彼女が何かに囚われて、身動きが取れなくなっていることを察した。
「時に、コウ。最終試験…儂がどう出るか、知っておるのか?」
ころりと話題を変えるようにしてそう問いかけたネテロに、コウはにこりと返す。
「…いいえ、私は…何も」
「そうか、それもよかろう。では…質問を続けようかの」
パタン、と扉を閉ざす。
顔見知りとはいえ、これが最終試験に影響する面談だと知っているだけに、緊張は大きかった。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、廊下を歩きだす。
いくつかの角を越えた時、不意にコウの目が脇へと逸れた。
そこから姿を見せたその人に、彼女はクスリと笑う。
「いつかと同じですね」
示し合わせたわけではないけれど、呼ばれていた。
二次試験が終わってからの飛行船の中と全く同じ。
人目を気にして、そこにいるのはギタラクルの姿をした彼だけれど、この姿にも随分慣れたと思う。
「一つ、お願いしてもいいですか?」
カタカタ、と声とは言えない音が返ってきた。
「最終試験、もし私と戦うことがあっても、無条件降伏はやめてくれませんか?」
恐らく、この試合におけるコウの評価は低い。
場合によってはイルミと戦うことになるかもしれないけれど、後があるなら彼は即座に降伏する。
それではだめだと思った。
最後の最後まで彼に守られていたのでは、きっと―――ライセンスには何の価値もない。
「いいよ」
「ありが―――」
「その代わり」
礼の言葉を遮るように続く彼の言葉に、コウは口を噤んだ。
代わりに―――何を要求されてしまうのだろうか。
「この試験が終わったら、俺と一緒に帰って」
「…一緒に帰るってことは…ゾルディックに?」
確認するように問うと、小さな頷きが返ってきた。
「親父たちに報告しないと」
「あ、そうですね。お世話になった分のお礼もまだ出来ていませんし…じゃあ、一緒に帰ってもいいですか?」
後日、と考えていたけれど、一緒に飛行船に乗せてくれるのであれば、コウにとってはありがたいことだ。
二つ返事で頷くと、イルミがじっとコウを見下ろしてきた。
ギタラクルの顔で見つめられるのは、睨み付けられているようにも見えて心臓に悪い。
あの、と声をかけるよりもほんの少し先に、彼の視線が外された。
「身体の調子は?」
「何となく、筋肉痛のような感じはありますけれど、動けないほどではないので大丈夫です」
「そう。まぁ、あまり無理しないでよ」
そう言い残すと、彼はそのままコウに背を向けて歩き出した。
その背中を見送りながら一人、目を細める彼女。
彼の背中が見えなくなると、ずるりと壁伝いにその場にしゃがみ込む。
ネテロのお蔭で随分と気持ちの整理ができた。
けれど、それでは自分はどう行動するのか―――これについては、まだ結論が出せないでいる。
「―――気分でも悪いのか?」
コウの頭の上から低い声が降ってきた。
耳に慣れないその声が、関わりのない人物なのだと教えてくれる。
そんな相手に無視を決め込むほどに体調が悪いわけではないので、ゆるりと重い頭を持ち上げた。
「気分が悪いなら、船員に声を―――」
「いえ、少し…立ちくらみが」
第三者を呼びに向かいそうなその人に、コウは慌てて立ち上がった。
そんな慌ただしい彼女の行動に、目の前の彼から向けられる、窘めるような目線。
「立ちくらみとはいえ、急に動き出すのは感心できんな」
「あ…そう、ですよね。すみません」
何だか、お父さんに怒られている気分だ。
反論の意思をすっかりと奪われ、素直な謝罪が唇を滑る。
「…受験生、ですよね。コウと申します」
「ボドロだ。故郷に君と同じ年頃の娘がいるせいで…放っておけなかった」
不快だったなら申し訳ない、と頭を下げられ、先ほどの感覚が強ち間違いではなかったのだと知る。
思わず、クスリと笑い声が零れた。
「私も、父に怒られているようだと感じて…少し、懐かしかったです。ありがとうございます」
コウの故郷は遥か遠く―――もう二度と会えないのかもしれない。
そんな心の内が言葉に透けて見えたのか、ボドロは少しだけ表情を歪めた。
しゃがんでいた時に床についていたかもしれない服の裾をパンと叩き、その空気を取り払う。
「―――」
最終試験の健闘を祈ります。
そう告げるつもりだった唇が、薄く開かれた状態でぴたりと止まる。
そうだ、最終試験で、この人は―――
「…やはりまだ具合が?」
「いえ、大丈夫です。…ボドロさん、もし…目の前で殺されると知っている人がいて…あなたは、どうしますか?」
脈絡のない、唐突な質問だっただろう。
その質問に対する疑問もあったはずだが、彼女がよほど切羽詰まった表情だったのかもしれない。
ボドロは少し悩むようにうなり、やがてゆっくりと口を開いた。
「そうだな―――」
16.01.30