暗号解読シリーズ
二次試験前半の課題をクリアし、後半へと移った。
スシは知っている。
しかし、あくまでも知識としての範囲でしかない。
人知れず建物を後にしたコウは、今しがた川から取ったばかりの魚を前に沈黙した。
ビチビチと跳ねる魚の目は、3つ。
「魚は捌いたこともあるけれど…これ、食べられるの…?」
その呟きに答えてくれる者はない。
コウがその魚を片手に建物へと帰ってきたとき、建物の中からは受験生たちの姿は消えていた。
そういえば、一斉に動き出すんだっけ―――ぼんやりと、そんなことを考える。
「ヒントも聞かずにいの一番に建物を出てったってことは、あんたはスシを知ってるのね?」
すぐ近くから聞こえてきた声に、びくりと肩を揺らす。
いつの間にかそこにいたメンチが、楽しげな表情でコウがとってきた魚を見下ろしていた。
「ええ、一応…でも、私は料理人じゃないです」
「知ってるわよ、そんなこと」
「…これ、食べられるんですか?」
食べて大丈夫なんですか?
まな板の上に置いた魚の3つの目に睨まれ、若干怯む。
そもそも、コウの常識ではこの数の目はあり得ない。
食べても大丈夫なのだろうかという不安がどうしても拭えないのだ。
「平気よ!美食ハンターの腹を舐めんじゃないわ!」
「そう…なんですか。…どうなっても知りませんからね…?」
任せなさい!とばかりにパンッと腹を叩いて見せるメンチに、コウも腹をくくることにした。
数種類の包丁の中から自分が扱えそうなものを選び、深呼吸。
体の作りが自分の知る魚と同じであることを祈りつつ、包丁を入れた。
「(へぇ…この子…)」
覚束ない手捌きではあるけれど、決して下手ではない。
恐らくは、見た目のグロテスクさに怯えているだけで、包丁自体は使い慣れているのだろう。
手順も間違いはなく、メンチとしては十分に及第点だ。
「あんた、悪くないわね」
「…そう、ですか?」
「豚も運べない甘ちゃんかと思ったけど」
その言葉にぎくりと身体を固くする。
何となく、責められているのだと感じた。
「見ていたんですね」
「44番は目立つのよ。自覚なかった?」
やや呆れた風な声色に、それもそうかと納得した。
ヒソカと行動を共にすれば嫌でも目立ってしまう。
しかし―――
「………あれは、女性としては運びたくないです」
頑張れば運べただろうけれど、女性としてあの巨体を担ぐのは嫌だった。
ほんの少しだけ、拗ねたような声になってしまったけれど、事実なので仕方ない。
諦めたコウの答えに、メンチは毒気を抜かれてしまった。
「私なんてアイツでも運べるわよ?」
アイツ、と指したのは前半で豚の丸焼きの課題を出したブハラだ。
メンチはコウとそう変わらない細腕のようだが、この世界の筋力は見た目に比例しないと知っている。
「…でしょうね」
「なになに?か弱く見せたい男でもいるわけ?」
あ、これ駄目だ。
手元に向けていた視線を上げたコウは、楽しげに輝くメンチの目を見て悟った。
完全に遊ばれている。
「…暇なんですか」
「ええ、見た通りだーれも帰って来ないからね。で、誰に見られたくないわけ?この試験に参加してるんでしょ?」
「黙秘します」
改めて手元へと視線を落とし、続きの作業を行う。
スシは鮮度が大事だ。
のんびりと進めてぬるいスシなど、このメンチは許してくれないだろう。
「女同士なんだから、暇つぶしに乗ってくれてもいいじゃないの」
「ぬるいスシは食べてくれないでしょう?」
漸くシャリに手を付けたコウは、見よう見まねでささっとスシを握る。
どの道、一生懸命拘ったって職人ではないコウにできることは少ない。
できたスシをお皿の上に乗せ、くるりとメンチを振り向く。
どうぞ、と差し出す前に見た彼女は、先ほどまでのふざけた様子など微塵も感じさせないプロの表情だった。
「お口に合わないと思いますけれど」
「料理は謙遜しながら出すもんじゃないわよ」
皿の上にちょこんと乗せられた三つは、どれも少しずつ違う。
一つ食べて終わりかと思えば、メンチは続けて残りの二つも口に運んだ。
「…何で柚子を乗せたの?」
「白身魚だったので、味が淡白なんだろうなと思って」
料理をする側としてあるまじきことかもしれないけれど、コウはこのスシを味見しなかった。
というより、この魚を食べる勇気を持つことができなかったのだ。
そのために、一種類では駄目かもしれないと、少しだけ手を加えた。
「ネタの切り方や握り方は全然ダメ」
きっぱりとそう告げるメンチに、腹を立てる気持ちはなかった。
門前払いすることなく、ちゃんと口に入れた上での審査だからだろう。
美食ハンター、つまりはプロとして、真摯な姿勢を感じた。
「あんた、どっかで作ってたでしょ」
「喫茶店で少しだけ。でもスシじゃないですよ」
「食材の組み合わせ、悪くないわ。それに細部まで手を洗ったり、衛生的な配慮も、見てて気持ちよかった」
指摘するべきところは指摘して、褒めるべきところは褒める。
淡々とそう告げたメンチに対するコウの評価は、決して悪いものではなかった。
駄目だったか―――と思いつつも、気持ちよかった、と言ってもらえたことが嬉しかったのだ。
くるりと踵を返した彼女の背中を見つめ、よし、次だ、と意気込む。
「柚子の………美味しかったわ」
「…え?」
「自力で頑張らないだけの甘ちゃんなら、絶対不合格にしてやろうと思ってたのになー」
残念だわ、と遠ざかっていく背中。
呆然と見送っていたコウは、慌てて頭を下げた。
ありがとうございます、というコウの言葉は、彼女の耳に届いただろうか。
「絶対に不合格にしてやる!って言ってたのにね。そんなに美味しかった?」
「味は悪くなかったわよ。何より―――優しかったわ」
何一つ見落とすことなく、隙一つでもあれば不味いと不合格を言い渡そうと思っていた。
そんな風に睨みを利かせていたメンチの目の前で、コウはそれが当たり前であるように動いていたのだ。
食べる相手に対しても、食材に対しても、調理器具に対しても。
どれ一つ雑な扱いをせず、メンチから見れば敬意すら払っているように見えた。
「甘いだけなわけないよね。お手本みたいに綺麗な“纏”だし」
「…出来るのにやらないなら、尚更ふざけた奴だと思ってたわよ」
―――黙秘します。
そういったあの時の横顔。
本人が気付いていたかどうかはわからないけれど。
「あんな表情されちゃ、女として納得せざるを得ないわ。甘ちゃんには違いないけど」
15.07.21