暗号解読シリーズ
目の前に横たわる丸々とした巨体を前にして、コウは遠い目で空を見上げた。
ズルいなぁとは思うけれど、知識はハンデだと思うことにした。
巨大な豚を前に、その弱点が分かっている彼女のすべきことは、そう多くはない。
あっさりと豚を失神させ、その次の段階の方が彼女にとっては遥かに厄介だった。
「…焼くの?これを…」
煙草も吸わないのに、ライターを持ってきたから火をつけることは問題ない。
問題なのは、コウは一般人とそう変わらない料理スキルしか持っていないということだ。
つまり、彼女が調理したことがあるのはせいぜい魚を捌く程度のこと。
自分の体よりも大きな獣をどうにかしたことなど、あるはずもないのだ。
「………無理」
魚を捌くのとはわけが違う。
同じ生き物に変わりはないかもしれないけれど、獣を“殺す”のだと自覚してしまった。
できるはずがない―――生きていること自体が、何かの命を奪っているのだとしても。
自らの手でそれを行うなど、紙面を読み進めた時には考えもしなかった。
はぁー…と深い息を吐き、膝ほどの高さの岩に腰掛ける。
しっかりと弱点に叩き込んだ攻撃のお蔭で、豚はまだ暫くは目を覚ましそうにない。
けれど、その先を進めることは―――やはり、できそうになかった。
いくら恨めしく見つめたとしても状況が変化することはない。
「どうしようかな…」
やれるところまではやろうと決めたはずなのに、立ち止まってしまう。
二歩進んでは三歩下がるような優柔不断な自分が嫌になるけれど。
たとえこの世界で生きていく上で、その覚悟が必要なのだとしても―――今はまだ、嫌だ。
カチン、とライターのふたを開いては、指先で閉じる。
磨き抜かれた銀色のボディーに映る、情けない表情の自分を見つめた。
「―――コウ」
「ッ!?」
ガチン、と強くライターを閉じる。
気配も何も感じず、突然背中から声がかかれば誰だって驚く。
バクバクと血流よく動く心臓を服の上から押さえ、声の主を振り向いた。
「び、びっくりした…」
「気を抜きすぎ」
誰かが訪れる可能性を考慮しているのか、姿はギタラクルのままのイルミがそこにいた。
気を抜いていたわけではない、彼が気配を殺すことに長けているだけで。
そう言いたいけれど、言ってどうなるものでもない言葉は飲み込むのが得策だと知っている。
深い呼吸と共にそれを飲み込んで、体ごと彼を振り向いた。
いつの間にかすぐそばに来ていた彼が手を伸ばし、コウの手からライターを奪っていく。
「ライターがほしいなんて言ったときは何かと思ったけど…こうなること、わかってた?」
「ハンター試験はサバイバルもあるって聞いたから、一応と思っただけ」
そう答えたけれど、彼はどこまでその言葉を信じているのだろうか。
ふぅん、と興味なく頷くと、イルミはもう片方の手をコウの後頭部に回した。
「…ちょ、痛い。当たってる!」
グイッと引き寄せられ、彼の肩に額を寄せれば、否応なしに彼の体に刺さる針の頭が顔面を襲う。
顔が歪むほどの強さで引き寄せられているわけではないけれど、鍛えようのない顔面の皮膚は無防備だ。
彼がコウの頭を解放したのは、それから数秒後のことだった。
「もう、何なんですか。顔に変な跡が付いた、ら―――」
どうしてくれるんですか、という文句は消えた。
解放された目を彼だけではなく周囲へと向けたところで、その行動の意味が分かってしまったのだ。
うめき声一つもなかった。
けれど、物言わず沈黙した豚は、明らかに“そう”とわかる。
「火、借りるよ」
薪の代わりになるようにと適当に枝を集めた彼は、コウが何かを言うよりも早く準備を終えてしまった。
ここに来た時にはすでに持ってきていたであろう、自分の豚と並べて、コウのそれを手早く処理する。
コウが言葉を選んでいる間に、すべてが終わっていたのだ―――他でもない、彼の手によって。
「…甘えてて、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ころり、とライターを手の平へと返される。
震えそうになる指先でそれを握りこみ、そっと唇を噛んだ。
「コウはか弱いね」
「…ごめ―――」
「でも、それでいいよ」
温かい手が、頭の上に触れた。
優しさを纏っているはずなのに、どこか不器用に感じるのは彼がその行動に慣れていないからなのだろう。
「コウはそのままでいいよ。できないことはしてあげる。言ったでしょ?助けてあげるって」
「どうして…?」
彼と目を合わせることができずに、俯いたままそう問いかける。
どうして、彼はそこまでしてくれるのだろうか。
少ない感情の中に、自分を想ってくれている情を感じたことはある。
けれど、なぜここまでできるほど、自分を想ってくれるのか。
いつだって自分に自信を持てないでいるコウには、それが理解できなかった。
視線を落として彼の答えを待つ時間の、なんと長いことか。
永遠とも思えるような時間は、頬に触れる自分ではない熱により終わりを告げた。
促されるように頬に添えられた手に従い、ゆるりと顔を持ち上げていく。
普段のイルミとは似ても似つかない顔の中に、彼の表情が見えた気がした。
―――むに。
「………あの、ちょっと」
今の状況にそぐわない気がして、声を小さく、何してるんですか、と呟く。
その声に反応するように、頬を摘まんでいた指先が逃げていった。
「…今はまだ、教えない」
それだけを答えると、イルミは腰を上げて焼きあがった豚を持ち上げた。
「じゃあね。先に行くから」
「あ、はい…」
ひらりと手を振って彼の背中を見送る。
気配を感じ取れなくなったところで、大きく息を吐き出した。
そして、世界から逃げるように顔に手を当てて小さく蹲る。
「…ギタラクルの顔じゃなかったら、どうなってたんだろう…」
顔と言わずに首まで熱い。
平然とした無表情な顔で、なんてことを言うんだろう。
何度かこういうことはあるけれど、その度に煩く鼓動する心臓をどう処理すればいいのか。
僅か数分の間の彼の言葉が次から次へと思い出されてしまい、鎮めるまでにかなり時間を要してしまった。
「やあ、コウ」
「ヒソカさん」
「火を貸してもらえるかな?」
「いいですよ、どうぞ」
「ありがとう★お礼に君の分も運んであげるから、待っててよ。女の子が運べないだろう?」
「…ありがとうございます。ヒソカさんって女心をよくわかってますね」
「僕はすでに君との接点があるから、手を貸したところで気にされないからね」
「…わかってます。自力で頑張るって言ったから、気を使ってくれたんですよね―――ってどこまで知ってるんですか?」
「さぁ、どこまでだろうね?」
15.06.29