暗号解読シリーズ
ただただ走るだけ。
かつて、ごく普通の学生だった頃のマラソンを思い出し―――いや、違うだろうと即、否定。
こんなにも延々と、先の見えないマラソンをさせる学校があったなら、悪い意味で有名になりそうだ。
そんなことを考えられる程度には余裕がある自分に、軽く肩を落とす。
どのくらいの時間を走り続けているのだろうか。
視覚的に理解してしまうのが怖くて、携帯しているはずの時計を確認できないでいる。
足音が減った。
訓練したわけではない、普通の聴覚を持つコウがそれを認識できるほどに。
気配は、もう随分と前から、一人、また一人、時に二人三人と減ってきた。
数か月前であったなら、その一人の中にコウも含まれていただろう。
けれど、この数か月が彼女を変えた。
少なくとも、数時間を経た今なお、呼吸を乱さない程度には。
「…300…もう少しいるかな」
同じ方向に向かって動いている気配を読み取り、小さく呟く。
どの程度の人数が試験を通過していくのかは覚えていない。
けれど、これだけ人数的に絞られたのだとすると、そろそろ―――
目立たないように、遅れないように。
集団の中ほどの位置を保っていたコウは、ふと前方がざわめくのを感じた。
来たか―――速度を緩めずに、意識を前へと向ける。
ずっと薄暗いトンネルだった視界に変化があった。
「大丈夫?」
視覚として階段を捉えたところで、コウは隣から聞こえた声に意識を動かした。
「…うん。大丈夫」
「そう」
気配はすぐに遠のいた。
この二人の接触に気付いた者はいないだろう。
コウは去っていく背中を見つめた。
前を走るその背中は、彼女の知る彼の姿形とは少し異なる。
その身に纏う気配も、いつもの彼とは違っていたけれど―――その気配は、コウから孤独感を消し去った。
延々と続く階段を前にして、ほんの少しだけ緊張した肩から力が抜けるのを感じた。
「…ありがとう」
呟いた声が、薄闇に溶けた。
数時間ぶりの太陽が目に沁みる。
きゅっと眉間に皺を寄せ、紙面で読み流したシーンをぼんやりと見つめた。
不思議だ―――視覚的に読んだ世界が、目の前に広がっている。
試験官を追って、走り出す受験生たち。
輪の一番外側で事の由を見つめていたコウは、あっという間にその場に取り残された。
ギャアギャアと悲鳴のような鳴き声と共に、敗者の躯を貪る。
目の前で繰り広げられている弱肉強食の食物連鎖は、コウの知るシナリオとなんら変わりはない。
視覚だけだった世界に、聴覚や嗅覚、触覚が加わっていく。
目の前に繰り広げられる世界は、紛れもなく現実だった。
コウというイレギュラーな存在があろうとなかろうと、物語は現実として進んでいく。
自分は、自分で思うほどに世界にとって大きな存在ではなく―――寧ろ、ちっぽけなのだと痛感した。
それと同時に、何かがコウの中から零れ落ちる。
―――ピリピリピリ
ポケットに入れていた、ケータイが電子音を奏でる。
半ば条件反射的にポケットからそれを取り出し、画面を確認するでもなく通話ボタンを押した。
『コウ』
「…」
『おいで』
―――隠してあげる。
あの日の声が機械越しの声に重なって聞こえた。
ケータイを添えた耳のところで、ピアスがチャリ…と揺れる。
ふらり、と鉛のように重かった足が動き出す。
『―――おいで、コウ』
それ以上の言葉はなく、通話は終わる。
コウが感じ取れるギリギリの痕跡が、暗闇を照らす小さな道しるべのように感じた。
前を行く集団の気配を意識の端っこに感知した。
それとほぼ同時に、ゾクリと背筋が粟立つ。
―――まず初めに教えておくね。
一番初めに、事もなげに。
―――これは、コウにとって一番“良くないもの”。感じたら、迷いや躊躇いは全部捨てて。
行くよ、と前置きをして、それから。
「―――ッ」
足が震えるよりも、本能がイルミの言葉を覚えていた。
はやく、早く、もっと速く。
気が付けば乱れた呼吸のまま、“そこ”に辿り着いていた。
足と言わず全身の力を抜き、膝に手を添えて肩で息をする。
ここまで過酷な道のりを走り続けた受験生の中にはコウ以上に息を乱す者も多い。
そのために誰も、彼女の様子に異変を感じたりはしなかった。
「…あいつ…」
最後尾に、まるで魔法みたいに唐突に表れたその瞬間を見ていなければ、きっと気付かなかった。
何かから逃げてきたみたいだ―――理由もなくそう感じる。
今のこの時まで意識していなかったその人に、ほんの少しだけ興味がわいた。
15.06.01