暗号解読シリーズ
例えば、あの試験にイルミが存在していない。
そんな未来が、もしかしたらあるのかもしれない。
本気でそんなことを考えていたわけではないけれど、ほんの少しだけ、そうであればと願っていた。
何気なく見渡した薄暗い空間の中に、見知った顔をいくつも見つけるまでは。
「君は、初めましてかな」
はぁ、と溜め息を吐き出したところで、そんな声が聞こえた。
確かな意図をもって自分の方へと近付いてきていた気配の主だから、驚くことはない。
振り向いた先には想像していた通りの顔があり、失礼だとは思いつつも溜め息が零れそうになる。
「俺は―――」
「すみませんけれど…」
人の良い笑顔と声で話を続けようとする彼の声を遮る。
まさか、そうされるとは思っていなかったのか、彼はきょとんとした表情を浮かべた。
「私に関わらない方がいいです」
「え、いや…俺は、この試験について教えてあげようと…」
「―――死にたく、ないですよね?」
小さな営業スマイルを浮かべてそう続ければ、目に見えて蒼褪める彼。
名前は…何だっただろうか。
名もないキャラクターではなく、そこそこに重要なポジションだったと記憶している。
けれど、コウが名前を憶えているほどではなかった。
別に、彼に話しかけられたから、下剤入りのジュースをもらったからと言って何かをするつもりはない。
そう、彼女自身は。
代わりと言っては何だが、先ほどからじくじくと感じる視線の主が何かをする―――間違いなく。
―――死なないよ。それに、死なせない。
守れない約束をする人じゃないことくらいは、わかっている。
この空間に一歩足を踏み入れた時から、彼の存在を感じない時はなかった。
視線こそ向けていなくても、彼は常にコウの存在を把握している。
無駄な殺しはしないゾルディックだけれど、彼が無駄だと感じなければ、躊躇うことはないだろう。
「関わらないでください。私のせいで、動いてほしくありません」
殺し屋として働く彼のスタイルを自分のせいで歪めさせたくはない。
彼にしてみれば“そんなこと”と呆れられるだろうけれど、コウにとっては重要なことだ。
その言葉を最後に、コウは男の前から立ち去った。
「…何だよ、あの女…」
何故こんな試験に、そう思うほどに、普通な雰囲気の女性だった。
それこそ裏表のない喫茶店のような所で笑顔を振りまいていてもおかしくないような、ごくごく普通の。
こんなところに来るから、俺みたいな奴に引っかかっちまうんだぜ。
心中の嘲りを人の良い笑顔に隠し、近付いた所まではいつもと何も変わりはなく、勝利を確信していた。
それなのに―――
―――死にたく、ないですよね?
場違いな笑顔に、ゾクリと背筋が逆立った。
何度もハンター試験を経験しながら、それでも命を繋いでいるのは危機感があるからだ。
ここから先は駄目だ、というボーダーを理解しているからこそ、ギリギリのところで生き残ってきている。
だからこそ気付く―――これは、殺気だ。
「あの女か…?」
殺気の出所はわからない。
けれど、あの瞬間ピンポイントで自分だけに向けられたそれに、彼女が無関係だとは思えない。
彼女が立ち去らなければ、何か理由を付けて自分が身を引いていた。
そう感じさせるには十分だった。
「あのガキと言い、あの男と言い…」
今年のルーキーはどうなってんだ。
小さく悪態をつき、次なるターゲットを探すべく歩き出した。
「おや」
「!」
不意に聞こえた声は、どこか聞き覚えのある声だった。
そうだ、確かお客さんの声だ。
そう思って、無意識にいつもの笑顔を浮かべて振り向いた先を見て、思わず固まる。
「…どちら様ですか?」
お客さんだと思ったけれど、自分の勘違いだったらしい。
ある意味ではよく知っている人なのだが、少なくとも声をかけられるような関係ではなかった。
この世界において、こんなにも奇抜な格好をした知り合いなんて、いない。
「酷いなぁ…忘れてしまったのかい?」
「………」
声には、嫌というほど聞き覚えがある。
独特の話し方をする人だなぁと思っていたけれど、紳士的な態度で嫌悪感はなかった。
むしろ、割と友好的に話をしていたお客さん―――だったはず。
「…もしかしなくても」
「いつも美味しいコーヒーをご馳走さま」
「………こちらこそ、いつもありがとうございます…」
うんうん、と満足げに笑うその目元が、間違いなくあのお客さんだ。
「(まさかの気付いてなかったパターン…!?仕方ないじゃん、ペイントがなかったら普通のイケメン…!)」
心の中でがっくりと項垂れる。
このお店には目の保養になるお客さんが多いなぁ、程度に軽く考えていた頃の暢気な自分が恨めしい。
関わらないように努力していたはずなのに、いつの間にかしっかり関わっているじゃないか。
しかも、キャラクターだったのか!と手の平を返せないほどに友好かつ円満に。
「結局、ハンター試験を受けに来たんだね」
「その節は色々と相談に乗ってもらってありがとうございました。結局、こうなりました」
申し込みから今日までに、彼には何度か試験について相談を聞いてもらっていた。
ぺこりと下げた頭に、穴が開くほど視線を感じる。
「…あの…?」
「うん、イイね。よく鍛えてある」
伸びてきた手が、さらりとコウの頭を撫でた。
子供をいい子、と褒めるような優しい手の平に、逃げるのを忘れて彼を見上げる。
「イルミは教えるのが上手かったんだね」
「ええ、お兄さんですし、とても分かりやすく。あの…」
「ああ、僕はヒソカ。イイなぁ、君。すごく美味しそうだけど―――」
ぽつりと呟く声に、少しだけ首筋がザワザワした。
そういえば、この人の嗜好って…。
そんなことを思い出したところで、ハッと我に返る。
ごく自然に体を動かして避けるよりも早く、ドン、と肩に小さな衝撃が走った。
「ってぇな、気を付けろよ」
「あ、ごめんなさい」
よほど急いでいたのか、文句ひとつを呟いて歩いていく男。
近付いてくる気配に気付くのが遅すぎた―――その事実に、小さく肩を落とす。
ヒソカの存在が色々と衝撃過ぎて、少し気を抜いてしまっていたようだ。
「じゃあ、またね、コウ」
「あ、はい。また…」
ひらりと手を振って離れていくヒソカを見送り、コウは小さく溜め息を吐き出した。
―――アイツと普通に喋ってた。
―――あの女、何者だ…?
遠巻きに自分を見つめる受験生たちの視線には、気付いていなかった。
腕が、とあげる男の悲鳴をBGMに、二人の男が並び立った。
「ヒソカ、アレは俺の獲物だったんだけど」
「うん、知ってるよ。わかりやすく殺気が出ていたからね」
「…知ってて、横取りしたんだ」
「うん。イルミは殺っちゃうだろ?コウが知ったら悲しむよ」
「………」
「ぶつかられた程度で殺していたら、命を狙われた日にはどうなるんだろうね」
「狙わせない」
「君らしくなくて、笑えるね。それにしても…彼女、イイね」
「ヒソカ」
「わかってるよ。コウに手は出さない。…僕も気に入ってるしね」
15.03.28