暗号解読シリーズ

失念していた。
忘れていた。
言い方を変えようが、結果は変わらない。
今更だと言われようと、忘れていたものは忘れていたのだ。
入れ込んでいた友人とは違って、すすめられるままに読んだだけの漫画のストーリーなのだから無理はない。
最終試験の印象があまりにも強すぎて、途中の試験内容のことをすっかりと忘れてしまっていたのだ。

「このエレベーターに乗ってしまってから思い出すって、どうなの…」

たとえ人目がなかろうと、その場に両手両膝をついてしまいたいくらいの衝撃だった。
いったい、どれほどの階数を下るつもりなのか、延々とエレベーター独特の浮遊感を味わう最中。
ふと「そういえばあの階段はすごく長いんだっけ…」などと考えたことがきっかけだった。
そこから思い出される、1次試験の内容に引っ張られるようにして、2次3次の内容を思い出す。
我に返ってしまえば、青ざめる以外に何ができるというのだろうか。
イルミに鍛えてもらって、そこそこ彼の動きにも追いつけるようになったから、少し図に乗っていた。
不安を打ち明ける人、みんなが口を揃えて「大丈夫」だというから、それを信じてしまったのだ。

「いやいやいや、無理」

ここが食堂の前だったなら、エレベーターに乗る前だったなら。
間違いなく、回れ右をして出ていったはずだ。
我に返るには、何もかもが遅すぎた。

「どうぞ」

低い目線から差し出される丸いプレート。
受け取り拒否をすれば、帰れるだろうか。
そんな往生際の悪いことまで考えてしまった。
けれど。

―――大丈夫だよ。

「………」

耳に残る声に、きゅっと唇を結ぶ。
震えそうになる指先を叱咤して平静を装い、プレートを受け取った。











「私、ハンター試験を受けたいと思ったことないんです。
店長はずっといていいって言ってくれてますし、あのお店が好きですし。
だから、ライセンスがなくても全然困ってないんです」

身元を保証するものは何一つないけれど、逆に言えばなくても今まで生活できていたのだ。
それが店長のおかげだというのは言わずもがなで、それについては感謝が尽きることはない。

「あって困るものでもないよ」
「でも、必要ないんですよ、本当に」

だから、本当なら申し込みはしたけれども不参加でしたという形が理想なのだ。
イルミに意見するのはとてつもなく勇気がいる。
けれど、今までの付き合いの中で彼に対して恐怖を感じたことは、一度もなかった。

無駄な殺しはしない。
ゾルディックの精神のお蔭なのだとポジティブな思考に背中を押され、切実に訴える。
表情の見えない黒曜石の目と見つめあうのは、とても体力を使う。
でも、ここで引いてしまっては負けだと、膝の上で拳を握った。

「―――…コウは」
「…」
「コウは、自己評価が低いよね」
「…はい?」

何の話だろうか。
首を傾げるコウに、彼は淡々と続けた。

「何が怖いの?」
「何がって…イルミさんみたいに、強い人がたくさん来るんでしょう?」
「コウだって弱くないよ。俺や家族とは比べられないけど」
「それは、イルミさんが手加減してくれてるからで、私は全然強くないんです」

きっと、彼が少しでも加減を緩めてしまえば、自分なんて一瞬で死んでしまう。
この世界にはそういう人間が溢れているのだと知っている。

「強い弱いというより、ハンター試験自体がコウにとっては怖いんだね。
だから、認めたくないんでしょ?いったい、誰に会いたくないの?」
「…っ」

いくら人の感情には無頓着なイルミであろうと、コウが本気で自分が弱いと思っているとは考えていない。
自分は弱い―――まるで、そうでなければならないように、彼女は何度もそれを繰り返す。
そうすることで、何かから逃げているように見えた。

「私、は―――」

感情が見えないのに、人の心は丸裸にしてしまう。
彼のこの眼が、苦手だった。

どうして言えるだろうか。
彼だけではなく“識っている”人々に出会ってしまうことが怖いのだと。
異端である自分自身が怖いのだと―――どうして、言えるだろうか。



紙面上でしかなかった世界が目の前にあって。
熱を持たない二次元のはずだった彼から熱を感じて。
彼らが“生きている”人間だとしたら、自分は一体何なのだろう。
イルミに触れてしまってから、静かに降り積もっていた不安が、音を立てて崩れ出した。

「わたし…」

伸びてきたイルミの手が、そっと頬を撫でていく。
そこでようやく、自分が涙を流していることに気付いた。

「私は…怖いんです。…世界に関わることが、怖い」

外の世界を知らず、小さな小さな世界で生きていければ、それでよかったのだ。
広げてしまえば、色々な人に関わってしまえば―――不安がより一層肥大する。

「…うん、わかった」
「イルミ、さん?」
「ハンター証だけ取って。そうしたら、俺がコウを世界から隠してあげる。
俺は別に今のままでもいいけど…たぶん、コウにはちゃんとここにいるための“理由”が必要だと思うから」

だから、試験だけ頑張って。
無表情なのに―――何故だろうか。
ないはずの表情が、見えた気がした。

「…本当に、勝手ですよね。私は、今までみたいにお店でいられたら十分だって言ってるのに」

でも、それでも。

―――隠してあげる。

その言葉は、コウにとって何よりも魅力的に聞こえた。

「…ハンター試験で、死んじゃったらどうしようもないんですよ?」
「大丈夫だよ。それに、そんなことにはさせないから」

殺し屋である彼の言葉を優しいと感じてしまっている時点で、この世界に染まりつつあるのかもしれない。

15.03.28