暗号解読シリーズ
「え…?」
告げられた言葉に、マグカップを取り落しそうになってしまった。
スカッときれいに取っ手の脇をすり抜けた指を、手持無沙汰に引き寄せる。
「イルミさんも…今年、受験なんですか」
「うん」
「ハンター試験、ですよね」
「うん」
「仕事で、必要だから、ですか」
「うん」
何てことだ。
この人と知り合って、数年。
大人になってからはそうそう見た目が変わるものでもないから、彼の年齢なんて知る由もない。
遥か昔―――コウがまだ、“コウではなかった”頃。
まだ学生だった彼女が、友人に勧められて読んだ漫画の中に、彼はいた。
今、コウの目の前にいる彼と、ほぼ変わりない姿の彼がそこにいたのだ。
何となく、漫画が進んでいた頃と同じ時期なのかな、という程度に考えていたコウ。
彼が今年ハンター試験を受ける―――その話を聞くまでは、原作とは無縁の世界なのだと思っていた。
それなのに。
「…前に聞いたキルアくんって…」
「キルがどうかした?」
「いえ…会えてないけど、何か理由があるのかなって…もしかして、この家にいない…とか?」
「ああ、うん。家出したんだ。そのうち連れ戻すつもりなんだけどね」
「…すみません。ちょっと用事を思い出したので部屋に戻ります…」
フラフラと立ち上がった彼女は、足取り危うくイルミの部屋から出ていった。
それを見送ったイルミは、特に気にすることもなく自分のすべきことを再開する。
彼女が突然用事を思い出すのは、今に始まったことではないので、今更気にすることでもないのだ。
「…店長、どうしましょう…」
『おいおい、電話の第一声が暗いぞ。いつものことだが…イル坊に苛められたか?』
「いや、自分でもびっくりするVIP待遇で驚いているんですけれど、そこじゃなくて…私、生き残れる自信ない」
『なんだ、どうしたんだよ。お前なら大丈夫だって』
「だって―――」
そこまで紡いだところで、コウは静かに口を噤む。
言えるはずがないのだ。
この先の未来を知っている、だなんて。
そんな話、自分だって信じられない。
もしかすると、そういう念能力を持った人はこの世界にはいるのかもしれない。
けれど、コウの場合は能力ではなく、記憶だ。
誰とも共有することのできない、形のないもの。
「………ううん、何でもないです。ごめんなさい、お店、大丈夫ですか?」
『おう、こっちは気にすんな。お前目当ての客が寂しがってる程度だ』
そんな店長の声に重なるようにして、
『元気にやってるかー?』
『たまには店に来てくれよ』
『寂しいぞー』
なんて声が聞こえてくる。
昼間だというのに酒でも入っているような陽気な声に、少しだけ心が軽くなった。
「うん、私も寂しい。できるだけ早く帰りますって伝えてください」
『…ああ、伝えとく。とにかく、無理すんなよ』
「うん、ありがとう、店長。じゃあ」
その言葉を最後に、通話が途切れる。
無言になったケータイを見下ろし、コウは項垂れた。
「あら、コウちゃん」
どうしたの、と優しい声が耳に届いた。
声に誘われるようにして廊下の先へと視線を向ける。
そこには、目元を機械で覆ったキキョウの姿があった。
今更だが、彼女がこの状態だということは、キルアはすでに家出済みだったのだ。
自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
そうしている間にも距離を詰めたらしいキキョウが、すぐ近くからコウの顔を覗き込んだ。
「少し顔色が悪いかしら…医者を呼びましょうか?」
「いえ、少しだけ睡眠不足で…大丈夫です」
そういって力なく笑うと、キキョウが「あら」と楽しげな声を上げる。
その反応に、何か誤解を与えてしまったことは悟ったけれど、すでに後の祭りだ。
「いや、あの…」
「ごめんなさいね、野暮なことを聞いてしまったわ。イルミと上手くいっているみたいで安心ね」
「だから…」
違うんです、という言葉を聞いてくれるような家族であれば、コウはとうの昔に関係を終わらせているはずだ。
言いたいことだけを言い終えた機関銃のような彼女が去っていくその背中を、遠い目で見送る。
―――原作に関わるなんて、ごめんだ。
この世界がこの世界だと気付いた時点でそう思い、関わらずにひっそりと生きていく決意をした。
それなのに、いつの間にかこの家に足を踏み入れて歓迎される程度には関係を築いてしまっている。
片足どころか両足を踏み入れてしまったこの世界から、果たして逃げ出せるだろうか。
「…うん、無理」
イルミと関わりを持ち始めた時点で、コウが自分で考えられる全てのことを実行に移した。
その結果が今なのだから、これ以上彼女が何をどう考えて行動したところで、無理なものは無理なのだろう。
「死なずに帰って来られるかな」
最終試験まで生き残りさえすれば、ハンター試験は合格できる。
今回の試験がそうだと知っているからこそ、コウは命の心配だけに集中できた。
それが、キルアの不合格による結果だと知った上で。
「死なないよ」
「…イルミさん」
いつからいたんですか、と思いつつも口にはしない。
「それに、死なせない」
だから、大丈夫。
表情のない彼の言葉に、無意識のうちに肩の力が抜ける。
その言葉を信じてしまえる程度には、イルミを信じてしまっていた。
「試験中、俺から離れなければ助けてあげる。たぶん、必要ないけど」
「…信じます、その言葉」
ハンター試験の、一週間前の出来事だった。
「…イルミ、さん?」
「ん?」
「もしかして…それで行くんですか」
「うん。どうも、キルアが参加するらしいから、ついでに連れ戻そうと思って」
「…」
「ゾルディックとして顔が割れてるし、面倒が起って合格できなかったら困るし」
「…そう、なんですか」
「ちなみに、名前はギタラクルで」
「…イルミさん」
「ん?」
「自力で、頑張ります」
「俺の傍にいればいいよ?」
「頑張ります」
そう?と首を傾げたイルミは悪くない。
悪いのは、イルミがギタラクルとして参加することをすっかり忘れていた自分自身だ!
15.03.22