Carpe diem --- 029
部屋に戻ってシャワーを浴びて。
いつもは何も映っていないモニターに浮かんだ文字を見ると同時に、コウはケータイを手に取った。
「ちょっと、どう言うつもり?」
コール音が途切れるのを聞いてすぐにそう問うと、相手からは楽しげな声が聞こえた。
『予想通りだね。どうせなら直接話そうよ』
そんな声が聞こえるのに合わせ、添えつけのインターホンが来客を伝える。
誰が来たのかなんて、わかり切っていた。
ケータイをベッドの上に放り投げ、ドアへと向かう。
ロックを解除してチェーンを外し、目の前で実に楽しげに笑う男を迎え入れた。
「準備期間が終わりそうだったから、代わりに申し込んでおいてあげたんだよ」
「私は戦いたいわけじゃないんだけど」
「でも、200階から落ちたら困るよね?」
「別に私はホテル生活でも困らないわ」
金なら有り余っているし、無事キルアとも再会できたし。
これ以上、ここにとどまる理由はないのだ。
あっさりと200階の優遇を捨てようとするコウを見れば、そこに到達できない連中はどう思うだろうか。
もちろん、他人の考えなど二人にはどうでもいい事だ。
「でも、言ってたじゃないか。“また会いに行くから”って」
コウの肩がピクリと反応する。
やはり、溺愛する弟の話題は聞き流せないらしい。
予想通りの反応に、ヒソカは隠す事なくクククッと笑う。
「…まったく…仕方ないわね。あの子、言った以上は来るでしょうし」
「うん。君ならそう言うと思ったよ」
良い子、とばかりに頭を撫でるヒソカ。
コウは改めて深く溜め息を吐き出し、そして彼を見上げた。
「それにしても…相手を自分にしなかったのね」
「…コウとの約束だからね」
200階に上がるまでに一人も殺さなければ戦う。
既に叶わない約束をいつまでも守るあたり、意外と誠実だと思ってしまう自分も大概だ。
「戦ってる姿で我慢するよ」
「あなたが魅せられる試合が出来るような相手が、このフロアにいるとは思えないけれど」
そして最後に、あなた以外、と付け足す。
するとヒソカは、それでいいんだよ、と答えた。
「魅せられるような戦いをされたら、君と戦いたくなるじゃないか」
「あぁ…それはそうね。ところで、あなたの試合はいつなの?」
「明日。君の試合のすぐ後だよ」
恐らく、それも仕組んだ事なのだろう。
多少興奮するのは否めないから、それを上手く次の試合で消化してしまおうと言う考えか。
何となくそれを悟ったコウは、そう、とただ一言呟いた。
「とにかく…聞きたかったのはこれだけよ。夜に悪かったわね」
「構わないよ。何なら朝まで付き合おうか?」
「別にこの部屋にいてもいいけど、父さんに一言、不誠実だった、って伝えるわよ」
「★」
そんな話が伝われば、翌日と言わずに一時間後にゾルディック家の誰かがヒソカの首を取りに来そうだ。
それはそれで面白いけれど、コウが遠のくのはありがたくない。
両天秤にかけた結論が出て、ヒソカは大人しく引き下がった。
その翌日。
控室でその時を待っていたコウは、近付いてくる気配に顔を上げた。
急ぐあまりに驚くべき速度で走っている事に、彼は気付いているのだろうか。
クスリと笑ってから読んでいた本を置いてドアへと向かう。
ドアの前、開くそれに打ち付けられない位置に立ったところで、ノックもなく唐突に開くそれ。
「姉貴!!」
「おはよう、キルア」
勢い余って飛び込んできたキルアを慌てる事なく受け止めてみる。
まさか目の前にいるとは思っていなかったのか、キルアはまともに彼女の腕の中に飛び込んでしまった。
もちろん、キルアの身体能力をもってすればそれを避ける事は出来たはずだ。
無意識でも反応する筈の身体は、残念ながら最愛の姉に対しては警戒しなかったらしい。
一瞬の間を置いて、慌てた様子でコウから離れるキルア。
ごめん、と頬を染める彼が可愛くて、クスクスと笑う。
「わ、笑うなって!」
「こんな風に私以外の腕に飛び込んじゃ駄目よ?世の中何があるかわからないんだから」
「姉貴以外に―――」
飛び込むわけがない!と言う言葉を何とか飲み込む。
どんなシスコン発言だ。
とりあえず深呼吸で精神状態を落ち着かせたキルアは、改めてコウを見上げる。
「今日、試合なんだって?」
「ええ。いつ知ったの?」
「昨日。ほんとはすぐに会いに行くつもりだったんだけど、ゴンとか色々あって」
「そうらしいわね。念を覚えたてで試合に出て、大怪我したそうじゃない?」
それが二週間ほど前の事だ。
ヒソカが興奮気味で、その日の彼の相手があまりにも悲惨だったので訳を聞き、事の次第を知った。
彼の話から命に別状はないと知っていたので、それ以上心配はしていなかったけれど。
「チケット、すげー売れ行きで即完売だって?」
「そうなの?」
「長蛇の列は8割男!ファンクラブまであるって?」
「…さぁ」
自分の事なのにとても淡白な反応だ。
まるで興味がないと言った様子の返事に、キルアは「そりゃそうだよな」と納得する。
コウにとって、自分と同等かそれ以上の強さを持たない男は、そもそも人として認識されるかも危うい。
何だかんだ言っても、ゾルディックの考え方はしっかり刷り込まれているのだ。
「で、そのチケットを買ったの?」
「当然!」
自慢げにそれを取り出したキルア。
それが一枚だった事に、コウは首を傾げた。
「ゴンはまだ治療中だからさ。下手に動いて治りが悪くなったら困るから我慢するって」
疑問に答えるキルアに、そう、と頷く。
そこでふと、会話が途切れた。
キルアはずっと考えていた事を口にすべきかどうかと逡巡する。
「あの、さ。姉貴―――」
「失礼しまーす!試合前のインタビューに来ました!!」
ばーん、と開いたドアの音と、賑やかな声に遮られたキルアの言葉。
冷静すぎるほどに「少し待って」と答えたコウは、キルアに続きを問う。
「ううん、何でもない!試合、楽しみにしてるから!
姉貴に限って、死ぬなんて事はないだろうけど…出来るだけ怪我すんなよ!」
元気さを取り繕って部屋を出ていくキルア。
それを見送ると、コウは小さく息を吐き出してからインタビューアーに向き直る。
「おはよう。インタビュー…だったかしら?」
「はい!えっと、今のは200階の闘士―――」
「困ったわね。私、そう言うのはあまり好きじゃないんだけど―――」
「えぇ!?そ、そこを何とか!!戦乙女コウのインタビューがないなんて沽券に係わるので!!」
コウはキルアについての話題から意識を逸らそうとしただけ。
しかし、女性からの思わぬ言葉に、コウは怪訝な表情を見せる。
「戦乙女?」
「はい!」
「…また変な二つ名を貰ったのね、私」
誰が乙女だとつけた本人に問い詰めたい所だが、今更別の名で塗り替えられるとは思わない。
呆れたように溜め息を吐くと、質の良い椅子に深く腰掛けた。
長い脚を組み直し、女性に向かいの席を促す。
「変な質問にはノーコメントで構わないかしら?」
「ありがとうございます!!」
それは、まるで一命を取り留めたかのような喜び様だったと伝えておこう。
11.02.19