桜舞う日の約束
いつの事だったか―――
そう新しいものではない記憶を辿り、思う。
二人で並んで、見上げて。
交わした言葉を、あなたは今でも覚えてくれている?
仕事帰りに久しぶりに見たものがあった。
それはもうすでに数年間見ていないもので…コウの眼は自然とそれに奪われた。
誇るように自身をしっかりと伸ばし、その視界を緋色に染めるそれ。
風が吹くたびに自身の分身をコウの元へと舞い散らせる。
それを受けるように両の手を持ち上げるコウ。
ふわりと音も無く舞い降りたそれを優しく指で包み込み、コウはその場を後にした。
「帰ったんだ?」
「うん。ただいま」
「お帰り。結構時間かかったね」
「ちょっと寄り道してたから。大丈夫、仕事は完璧にこなしてきたわ」
廊下で出会ったイルミと二・三言葉を交わし、コウは自室へと足を向けた。
滑り込むようにして自らの空間へと足を踏み入れると、張り詰めていた心が一気に解放される。
押し寄せる長旅の疲れを誤魔化すように、彼女はシャワールームへと消えていった。
嵩を減らした髪から滑り落ちる雫をタオルでふき取りながら、コウはベッドへと身を投げ出した。
仕事前にそのまま放置して行ったソファーベッドのスプリングが軋む。
一週間ぶりの自室は酷く心地よく、どうかすると今すぐにでも眠りの世界へ引き摺り込まれそうだ。
そんなコウを引き止めるかのように、部屋のドアがノックされる。
「はーい?」
身体を起こすのも億劫で、寝転がったままの状態でドアの向こうに居るであろう人物に返事を返す。
この部屋にやってくるのは一部の使用人とカルト、キキョウ、イルミくらいのものだ。
それらの人物は皆コウが仕事帰りであると言う事を知っている為に疲れていても不思議に思われる事はない。
「俺だけど」
「……………どうぞ?」
いつもの事。
いつもの事だけれど、彼らは名前を名乗らない。
声くらいはいくらでも誤魔化せると言う事で電話は殆ど繋がれないと言うのに…。
これでいいのか。そんな事を考えていると、返事が遅れてしまった。
コウの返事から一呼吸を置くようにして、割と重めのドアが開かれる。
「寝てた?」
「んー?起きてたよ。横になってただけ」
「どうでもいいけど、シーツ濡れるよ?」
「タオル敷いてるから大丈夫」
ごろんと仰向けの状態から反転して、うつ伏せへと身体を動かす。
そうすれば、先ほどまで逆に見えていたイルミが正しい方向で視界に映った。
どこか呆れるような表情をしているのは気のせいと言う事にしておこう。
「今時間ある?」
「時間はあるけど……」
「けど、何?」
「疲れてるから手合わせとかは嫌よ?」
「…わかってるよ、それくらい…」
「じゃあいいわよ。何なの?」
両腕を突っ張らせて起き上がると、ルシアがベッドの脇まで歩いてきた。
ルシアに笑みを返して敷いていたタオルを渡してやると、尾を振りながらそれを脱衣所に運んでいく。
帰って来たルシアの額を撫で、コウはイルミへと向き直る。
「外に行くんだけど…その格好で行く?」
「………ちょっとだけ時間を貰うわ」
自分の姿を見て暫し考え、そして奥の部屋へと去っていった。
程なくしてコウが戻ってきた。
上はラフなTシャツで、下はジーンズと言う出で立ち。
湿り気を帯びている髪を髪留めで結い上げていた。
「お待たせ。外ってどこまで行くの?」
「敷地内だけだよ」
「………敷地内って一言に言われてもかなり広いけど…まぁいいわ」
肩を竦めるようにしてイルミの隣に並ぶ。
そんな彼女を一瞥すると、イルミはすぐに歩き出してコウの自室を後にした。
「この先だよ」
自分の後ろをついてくるコウに、イルミはそう声をかけた。
屋敷を出て、深い森に足を踏み入れてからすでに数時間が経過。
いくら疲れているとは言え、普段から鍛えているコウがそれくらいで音をあげることはない。
イルミの声に反応するようにして、コウは少しだけ足を速める。
森の木々によって遮られていた視界が開ける。
「……………綺麗…」
視界を舞う、緋色のそれ。
ふわりふわりと二人を歓迎するかのように風に乗った。
「覚えてたの?」
「一応ね」
イルミよりも数歩前に歩き出していたコウは、肩越しに彼を振り返る。
幼き日に偶然見つけたそれを、彼が覚えているとは思わなかった。
「まだ生きていたのね…」
嬉しそうに目を細めて、コウは桜の大木を見上げる。
足元に出来た緋の絨毯を踏みしめるようにしてその幹まで近づいていった。
コウの腰ほどの位置に付いた小さな傷を見て、それに指を這わせる。
「ねぇ、イルミはさ…あの時私が言った言葉は覚えてる?」
「…まぁね」
「そう…。ごめんね、約束守れてないみたい」
語りかけるように呟き、自嘲気味な笑みを浮かべて両の手を幹に重ねる。
思い出を噛み締めるようにゆっくりと目を閉じた。
『自分一人でも生きていけるようになったら…また会いに来るね』
答えることのない桜に勝手に約束を取り付けて、その証として幹に小さな傷を残した。
ほんの小さな思い出。
「連れてきてくれてありがとう」
桜から手を放すと、コウはイルミを振り返って微笑んだ。
返事の代わりに頷く彼を見ると、再度桜に視線を戻す。
「また会いに来るわ。今度こそ、約束を守れるその日に」
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05.04.11