狐の嫁入り
朝練を終えた生徒が教室へと向かう朝礼前の廊下。
学年が変わると階も異なる。
「しっかし、まだ慣れねぇなぁ」
朝練後の程よい疲労感の中、小さな欠伸をかみ殺して隣を歩く紅を見る。
「何が?」
「お前の表情だっての」
「…そう?」
きょとんとした表情で首を傾げる彼女に、溜め息を一つ。
こんな表情ですら、二年目になろうとする付き合いの中で初めてである。
「日向の奴、朝からキレッキレだったな」
「うん、調子よかったよね」
元気で何より、と小さく笑えば、廊下にいた数名が驚いたように彼女を見た。
そんな視線には気付いていないらしい彼女は、自分たちのクラスの扉を潜る。
「おはよう」
「おは、よう…?」
大きくはない声だが、紅の声はよく通る。
彼女と親しいクラスメイトがその声に振り向き、そして固まった。
わかる、気持ちはわかるぞ!田中は心の中で同意する。
「え、紅…どうしたの!?」
「ん?何が?」
そんな風に首を傾げながら自分の席へと向かう彼女の周りに集う女子生徒。
ワイワイとしたその賑わいを遠目に見守る男子生徒。
「雪耶さん、笑ってね?」
「うわ、超レアじゃん!何事?」
「あれ、どうしたんだよ田中!」
紅がバレー部マネージャーというのは周知の事実である。
となれば、質問の矛先が田中へ向かうのも無理はない。
しかしながらこの男、バレーに青春をささげる男子の中では比較的、男女の恋愛事には近しい存在であり。
「…俺は知らねぇ!なんか表情豊かになった!以上!」
日向と紅の事をベラベラと口軽く喋るわけにはいかない。
無理は承知でも、余計なことは言わず「知らない」を貫くことにした。
田中からは何も聞き出せないと悟ったらしい男子は恨めしそうに女子の輪を見つめた。
一方の女子はと言えば―――変化の理由には敏感だ。
「ねぇねぇ、どうしちゃったの?」
「もしかしてもしかする!?」
「片思いの彼との関係が進んだとか!?」
きゃー、と声を上げたのは一人や二人ではない。
ちなみに紅が告白の断りに「好きな人がいる」と告げているのもまた、多くの生徒が知る事実である。
「んー…秘密」
少し視線を上に逃がした紅は、そうして悪戯に微笑んだ。
屈託なく、それでいて小悪魔的な魅力もあり。
「可愛い…!」
「そんな表情できたならもっと見せなさいよ…!!」
とりわけ仲の良い女子生徒が顔を赤くしてそう叫んだ。
何かが変わったわけではない。
普通に授業を受けてお昼を食べて、午後の授業を終えて。
放課後になれば部活の時間だ。
女子更衣室で運動着に着替えた紅は、まだ誰もいない体育館で大きく息を吐いた。
先週までは会えなかったけれど―――今は、ちがう。
バタバタと足音が近づいてくる。
「一番乗り!!―――じゃなかった!早えよ!!」
「ふふ。お疲れ、翔陽」
「おう!」
パッとその場が明るくなるような笑顔。
「な、紅!練習始まるまででいいから、ちょっとだけ―――」
「いいよ。皆が来るまでね。マネージャーは準備時間がいるから」
「やった!!ボール出してくる!ってか、出していい!?」
「うん、今から出してこようと思ってたからお願い。そっちの倉庫ね」
よっしゃ!と走り去る日向の瞬発力に笑みをこぼす。
ガラガラとボール籠を押してくる彼からそれを受け取り、丁度良い位置にセットした。
すでに、日向はワクワクした様子で開始位置に立っている。
「いくよー」
「シャーッス!!」
ぽーん、と山なりのボールを投げ、日向がそれをレシーブする。
パスの落下地点に滑り込んだ紅は、オーバーの構えを取った。
ちらり、と日向の位置を確認し、トスを上げる。
高く飛んだ彼の手がボールを捉え、ダァン、と反対コートへと打ち下ろされた。
「おおお!紅のトス久々!!」
「どう?」
「ちょっと低い!」
「はいはい。じゃあ次ね」
新しいボールを取り、ぽーん、と投げた。
「なぁ、紅」
「ん?」
「あれできる?ビュンの奴」
「…影山と合わせたアレ?」
そう!と力強く頷く日向の眼には期待が宿る。
随分と無茶を言う―――苦笑いと共に、土曜日の試合の光景を思い出した。
日向の位置、先ほどまでの打点、踏切からの時間。
一連の流れを自らの中で反芻し、理解して。
「ん、おけ。翔陽」
紅は静かに頷き、多くを告げることなく、日向を呼ぶ。
「っし!」
パッと表情を輝かせた日向は迷うことなくスタートラインに走る。
紅はその場で自分のもっていたボールをふわりと投げ、一度アンダーレシーブを打つ。
それと同時に、日向が走り出した。
「お?何だお前ら、そんなところで…入らないのか?」
「あいつらすげーんスよ!」
入口の所から中を眺める数名に、澤村と菅原が首を傾げる。
ちなみに、中に入ろうとしているらしい影山は首根っこを掴まれて引き止められている。
二人は影山の隣から顔をのぞかせ、体育館の中を見た。
「雪耶がボール出しすんのか?」
ふわりと山なりに飛んだレシーブの下に入り込むと、紅はオーバーの構えを見せる。
日向が床を蹴った。
「「「「!?!?」」」」
紅があげたトスはあの日、影山が見せたトスと同じように日向の手の平へと吸い込まれる。
一瞬で、ボールはネットを超えて向こう側のコートに突き刺さった。
「翔陽、どんな感じ?」
「当たった!でも影山のより弱い!」
危なげなく着地した翔陽は紅の元へと走り寄り、彼女の問いかけに笑顔で答えた。
「おま、今の…!」
わらわらと体育館の中になだれ込んでくる部員たち。
「あ、翔陽、続きはまた今度ね」
「待て待て待て!!」
準備してきます、とあっさりとその場を離れようとした紅は菅原に引き止められた。
「トスあげられんの!?」
「…一応」
「一応ってレベルじゃねーべ!?」
「翔陽にトスをあげたくて、練習したので」
「そういう問題!?」
「試合中にできるようなスキルはないですけど、今みたいに動いていない状況で翔陽の手元にあげるくらいなら。さっきは上手くいきましたけどたぶん成功率は低いです。これ難しいね、影山」
「ちょっとのズレが致命的…ッスよね。ムズイっす」
「いやいやいや…お前すげーな」
「ここにいたら、不要なスキルだと思います。翔陽に上がるトスは沢山あるでしょうから」
そう呟く紅の脳裏には、中学校時代の光景が浮かぶ。
トスであれレシーブであれ、自分が在学中はまだ、練習相手になることができた。
けれど、卒業してしまってからの一年を、彼はどう過ごしたのだろう。
そのときのことを考えると、胸がギュッと締め付けられる。
―――早く、早く。彼を、ここに。
一年間、練習風景を眺めながら、どうか時間が早く過ぎ去ってほしいと、そう切望した。
「俺、どんなトスもありがたいけど―――お前のトス好きだぞ!」
「うん、ありがと」
2024.05.12