狐の嫁入り

放課後、部活動までに少しだけ時間が欲しい。
シンプルにそう記された手紙が机の中に入っていた。
教科書を入れようと思ったときに気付いてよかった、奥に押し込むところだったなぁ、と思う。
何となく、この手紙の意図はわかる。
そう多くはないけれど、中学と高校を合わせて片手の指では足りない程度には経験しているから。

「雪耶、はよ!」
「西谷おはよう。あのね」
「ん?」
「今日の部活、遅れるかもしれないって伝えてくれる?」
「おー、任せとけ!」

ぐっと親指を立てて元気よく頷く西谷に、よろしく、と返した。






部室棟の裏に、という呼び出し場所にため息を一つ。
放課後のこの時間帯、ある意味人の出入りが最も盛んになるであろう部室棟付近への呼び出し。
相手はよほどの自信家か、もしくは何も考えていないのか。
さすがに部活前の貴重な時間のロスを避けるため、という心遣いとは受け取れない。

「入学初日に見たときから好きだなって思ってて。俺と付き合ってください!」

窓が開いている部室があちらこちらに見える。そこから感じる、好奇の視線とその気配。
内密に事を終えるつもりなど微塵もないと言いたげな音量の声に、吐きだしそうなため息を飲み込む。
深呼吸を一つ。
そして、幾度となく繰り返してきた返事を告げるべく、唇を開いた。






「入学初日に見たときから好きだなって思ってて。俺と付き合ってください!」

窓の外から聞こえてきた声に、部室内が静まる。
部活に汗を流す彼らとて、男子高校生だ。
色恋沙汰に全く興味がないというわけではない。
誰ともなく耳を澄ませるようにして、意識は部室の外へと向かう。

「―――ありがとうございます」

静かな女子の声が聞こえ、その場の全員が息を飲む。
どう考えても聞き覚えのあるその声の主は、男子バレー部マネージャーのひとりだ。

「ごめんなさい。私―――好きな人がいるんです」

マジかー!!どこからか、声が聞こえた。
あちらの方向はサッカー部の部室だろうか。

「あ、っと…俺、好きになってもらう自信あるから!」
「………」
「…お試しって感じでもいいんだ。…どうかな」
「それもできません。彼のこと、ずっと好きなんです。昨日も今日も…きっと明日も、その先も…変わることなく大好きだっていう自信があります」

凛として、それでいて穏やかで。
いつもと変わらない冷静な目はきっと、少しだけ熱を帯びているのだろう。



いつの間にか、部室棟裏の気配は消えた。
未だ沈黙のままの部室内は、様々な思いが入り乱れている気がした。

「いやー…なんかすごいのを聞いたな」

ぽつりと呟かれた言葉に同意の声が飛ぶ。

「雪耶って、色んなことに無関心って感じがしてたけど」
「あれって告白を断るための言葉…って感じじゃねぇよな」
「…多分?あの感じで、本心じゃないって言われたら俺、なんにも信用できねぇわ」

先輩たちがそんな風に話す傍らで、田中はふと、過去の会話を思い出す。

―――田中って一途よね。
―――おう!お前には悪いが潔子さん以上の女性はいねぇ!!
―――いいんじゃない?それだけ誰かを想えるのも素敵だし、それだけの想いを向けてもらえるのは、人として幸せだね。


清水へのアプローチを笑われたことは一度や二度ではない。
あんな風に好意的に受け止められたのは初めてだった。
恐らく、彼女もまた、一途に誰かを想っている一人なのだろう。

「お先ッス!」

まだ若干浮ついた気配の残る部室内にそう声をかけ、体育館へと向かう。
渡り廊下を歩く紅を見つけた。

「雪耶!」

自分に向けられた声にゆるりと振り向く彼女の動きに合わせて、黒いポニーテールが揺れる。

「お前も頑張れよ!」

ぐっと親指を立てた田中が、紅を追い抜いて体育館の中へと走り去っていった。

「…何が?」

残された呟きは、誰の耳にも届かずに溶けた。









「雪耶の“あの言葉”の相手が日向とはなぁ…」
「いや、予想外も予想外でびっくりしたわ」
「雪耶ってあれからも結構告白とか受けてて、そのたびに好きな人がいるって答えてたらしいんですよ。だから、既婚者に片思いしてるとか、遠距離での片思いとか…いろいろ噂ありましたよね」
「あったあった!少なくとも、年下相手だって噂は一度も聞かなかったな」
「本人が大人びてるから、年上説が濃厚って感じだったなぁ」
「っつーか、笑った顔はじめて見たわ」
「クラスでも見たことないですよ。1年の時同じクラスでしたけど」
「あの表情をさせられるのが日向だけだってことなら、誰も勝ち目ねーな!」
「人見知りの緊張でそうなってたって事実には驚いたよな、ほんとに」
「いや、マジでそれな。筋金入りで逆に面白いわ」

2024.05.02