グロリオサ
先に出てろと言われ、ホテルの廊下に立った紅。
何をするでもなくホテルの壁に凭れてクリフォードを待っていると、向こうから歩いてくる人物の存在に気付く。
顔を上げた彼女は、あ、と声を漏らした。
「…ルーレットの女か」
「紅よ。Mr.?」
媚びるでもなく、ごく自然に姿勢を正してそう答えた紅に、遠慮の無い視線が向けられる。
上から下まで二往復ほど視線をめぐらせたドンは、僅かに口角を持ち上げた。
「酒も火遊びも一通りは嗜んでるらしいな。そう言う女は嫌いじゃない」
紅の表情や態度から夜の姿を想像できたのだろう。
楽しげに笑みを浮かべてそう言った彼に、彼女は肩を竦めた。
「あら、ごめんなさい。それなりに楽しんでいるけど、見境はあるの。他を当たって頂戴」
引く手数多でしょう、と笑う。
暗に好みではないと含ませた彼女の言葉に、ドンが声を上げて笑った。
その場の空気がびりびりと震えたように感じたのは、気のせいだろうか。
彼の笑い声が止まったところで、タイミングよくドアが開く。
そこから姿を見せたクリフォードがドンの姿を見止め、僅かに目を見開いた。
しかし、何を言うでもなく紅へと視線を動かす彼。
「紅」
「何?」
呼ばれてそちらを向いた彼女の頬に、彼の手が伸びる。
思わず動きを止める紅。
クリフォードはそんな彼女の様子を気にすることなく、彼女の耳元の髪を掻き揚げる。
カチン、と耳元で音が鳴った。
「忘れてたぞ」
「あ、ありがとう。…これ、気に入ってるの」
彼の手が離れ、入れ替わるように自身の手を耳元へと運ぶ。
耳たぶを飾るピアスはいつでもそこに着けているものだ。
今まで気付かなかった事は薄情だと思うけれど、気に入っているものは気に入っているのだ。
まるでパズルのピースのようにそこに鎮座するピアスの存在に、少しだけ頬を緩めた。
「クリフォードがその女を買ったか…意外だな」
「買った覚えは無いな。第一、あの程度の金で買えるような安い女じゃない」
さらりと告げられる高評価に、紅の頬が僅かに色づく。
ありがたい事に、話に集中しているらしい男二人はそれに気付かなかった。
こんなのは自分らしくない、と少しだけ熱くなった頬を冷ますように小さく小さく深呼吸。
流石にアメリカ代表と共にバスで会場に乗り込むつもりは無い。
そんな事をすれば、メディアに囲まれ、ファンに睨まれる。
ホテルの下まで彼らと行動を共にした紅は、空を仰いで伸びをした。
「さて、と。今日の試合、頑張ってね」
応援できないけど、応援してるから。
一見矛盾している彼女の言葉も、立場を考えれば無理からぬものだ。
バッグを肩にかけた彼女は、思い出したようにそれを下ろした。
「パンサー」
「俺?」
自身を指差して首を傾げた彼に、そうだと頷く。
そして、こっちへ来いと手招きをしてからバッグのチャックを開いた。
がさがさと中を探って目当てのものを取り出す。
「生で見られるし、要らないかと思ったんだけど…折角作ったから、あげるわ」
そう言って彼女が取り出したのはケース入りのDVD。
受け取った彼には、それに何が映されているのかはわからない。
とりあえずそれを見下ろす彼に、紅はクスリと笑う。
「あなたの大好きなライバルの試合を編集して入れてあるわ。会えたら渡そうと思っていたの」
「ライバルって…セナ?」
目を輝かせ、受け取ったDVDを見下ろしながらそう確認する彼に、あえて何も答えず、笑みだけを返す。
それが何よりの答えだ。
「あの子は日々進化している。きっと、今日の試合で見る彼以上のものは映っていない―――楽しみ?」
笑ってそう問いかける彼女に、パンサーの記憶が刺激された。
――― 一ヶ月後か、二ヶ月後か、一年後か…きっと、瀬那と戦う日を想像してみて―――ほら、楽しみでしょう?
記憶の中でそう微笑んだのは、明るすぎる茶髪の女性だ。
その女性の顔と、紅の顔―――漸く、彼女を思い出した。
「ありがとう、紅」
彼が思い出したということに気付いたのだろう。
紅は嬉しそうに頷いた。
「クリフォード」
「ちょっと貸せ」
携帯で時間を確認した紅は、そろそろ仲間と合流しなければと思う。
別れを告げようと顔を上げたものの、その言葉はクリフォード自身の声により遮られた。
言われるままに携帯を渡すと、ものの10秒でそれが返ってくる。
「試合後なら構わねぇ」
返された携帯の画面に映し出されているナンバー。
彼は、紅が何を言おうとしていたのか、気付いていたらしい。
「…お見通しね。でも、ありがとう」
ナンバーをアドレス帳に登録して、今度こそ別れを告げる。
次に会うときは、お互いに違うチームだ。
名残惜しげもなく道行くタクシーを止めた彼女は、笑顔を残してホテルを後にした。
「へぇー。クリフォードがナンバーを教えてあげるとはね。可愛い容姿に惚れちゃった?」
「…普通だろ」
「おいおい、普通じゃないよ、あの子は。どう考えても日本人としてはかなりハイレベルだって」
からかうつもりが思わぬ切り替えしに口元を引きつらせるバッド。
あれを普通だというならば、ハイレベルはどんな女だ。
「気に入ったのは容姿じゃない」
それ以上話をするつもりは無いのか、クリフォードはバッドに背を向けて歩いていく。
彼の返事は、バッドにとってはとても意外なものだった。
「気に入った事は否定しないってわけか。パンサー、あの子ってどんな子?」
「え、俺!?えーっと…―――」
―――お見通しね。でも、ありがとう。
そう言って笑った彼女の表情は、いつもの凛としたそれではなかった。
ふわりと花開くような笑顔に一瞬でも目を奪われたのだ。
彼女の容姿が普通だとは思っていないけれど、強く惹かれるものでもない。
惹かれたのは、ふとした時に見せる表情のギャップだ。
青二才にコケにされたのは汚点と言える出来事だが、彼女に会ったと言うを考えれば水に流してもいいだろう。
クリフォードは僅かに口角を持ち上げた。
花言葉:栄光
09.09.04