ガーベラ

しまった、と思った時には、何かにぶつかってしまった。
同時に、まるで壁に弾かれたような感覚で、身体が前ではなく後ろに仰け反る。
こちらには速度と言う強い味方が居たにも関わらず、こちらが負けたのだという事は歴然だった。
そのまま後ろに尻餅を付くと思っていたが、事態は 紅の予想していなかった方向へと転がり出す。

「っと。ごめん、大丈夫?」

声で、男の子なのだと認識する。
初めに二の腕を掴まれ、その後腰が支えられた。
その間、2秒ほど。
迷いもなければ躊躇いも無い行動に、男の子に支えられたのなんて初めて、と照れる暇すらない。
呆気に取られる暇もなく傾いていた姿勢を元の位置に戻され、ついでに制服の二の腕に付いた皺を伸ばされる。

「行き成りだったから加減を失敗したかもしれないな。腕は痛くない?」
「え、あ…大丈夫」

痛いどころか、感覚すらないような気がする。
もちろん彼に掴まれた事が原因ではなく、夢うつつのような感覚だったから、と言っておこう。
何とかそう答えると、彼は安心したように顔を綻ばせた。
男は無表情で在るべきと思っているわけではない。
けれど、今までに見たことがないくらいに爽やかに笑った彼に、何か不思議なものを見たような気がした。

「じゃあ、急いでるから…本当に、ごめん」

そう言うと、彼がそのまま紅が来た方へと足早に去っていく。
流石と言うべきか、あの長い足を駆使して早足で歩くと、彼の姿は瞬く間に廊下の向こうに消えた。

「…あ。私は謝らなかった…」

明らかに走っていたのはこちらだったと言うのに、彼には二度も謝らせて自分は心配されただけ。
何て自分本位な人間だろうか、と自己嫌悪に陥りつつ、自分も急ぎの用があったのだと思い出す。
彼ほどではないにせよ急いで廊下を歩き出した彼女の記憶からは、先程のことがコロンと抜け落ちていた。
帰宅後、風呂の中で自分の二の腕に覚えのない手形が残っている事に気付くまでは。










翌日、友人に昨日の出来事を話した。
急がせていたのは彼女だったから、まずはごめんね、と言う謝罪を貰う。
その後は色恋沙汰に眼を輝かせる女子高生へと変貌し、相手の男の子の様子を事細かに尋ねてきた。
その質問に答えようとして、はた、と気付く。

「…………あ」
「あ、じゃなくて。どんな人だったの?格好良かった?」
「えーっと…多分」
「多分って何!?」
「………顔、忘れた」

躊躇いつつそう答えると、はぁ!?と盛大に驚かれた。
紅達の年頃になると、彼氏の一人や二人は当たり前になりつつある。
当然、男子生徒のチェックに余念のない女子も少なくはない。
廊下の角でぶつかって助けてもらって―――漫画みたいにベタなシチュエーションであろうと、使えるものは使う。
世の女子高生は意外と強かなのだ。
それなのに、そんな美味しい偶然の出会い相手の顔を忘れたというのか。

「だって…急いでたし」
「顔を覚える時間くらいはあるでしょうが!じゃあ、声は?」
「んー…低かった」
「男子なんだから当たり前でしょー!!」

もう、この子は!!と自分のことでもないのに興奮する友人。
紅はその勢いにビクリと怯えつつ、必死に思い出そうとしてみる。

「…声は、悪くなかった…よ。…うん」
「じゃあ、身長!」
「身長、は………高かった」

少しずつだが、顔以外は思い出してきているような気がする。
一歩ずつ確信へと迫ってきているようなきていないような紅の様子に、じゃあ、と声を上げる彼女。

「背が高いってことは、バスケ部やバレー部かしら。他に何か印象に残ってることはないの?」
「印象…」

何だろう、と考えた所で、ふとあの笑顔が浮かんだ。

「爽やかな笑顔?」
「ふぅん。爽やかなんだ」
「うん」
「他は?何か残ってない?」
「…残ってるのは………痕?」

必死に思い出して答えてみれば、友人の表情が凍った。
二の腕の手形は朝になっても薄いものの消える事はなく、痛みがない事が不思議だったので今も覚えている。

「痕って……何されたの!?」

きゃー!と頬を染めながら更に興奮した友人。
いよいよその空気に耐え切れなくなった紅は、口元を引きつらせた。

「あーっと、担任に呼ばれてたんだったわ。じゃあ!」

ガタン、と少し大きめに音を立て、彼女の追及を逃れるように教室を後にした。












当てもなく廊下を歩いている間に、昨日の事を考えてみる。
背が高くて、笑顔が爽やか。
そこは思い出せたというのに、やはり肝心な顔のパーツが思い出せない。
人の顔を覚えるのは得意とは言いにくいが、まさかここまで酷いとは。
うーん、と頭を捻りながら例の角を曲がる。

どんっと何かにぶつかって、自分の重心が後ろに傾く。
あれ、これってデジャヴ?とほんの少しだけ感動にも似た感想を抱いた。

「っと。あれ、君は…」

昨日と同じ場所を掴まれ、傾きが止まる。
声に反応するように顔を上げれば、そこは男子生徒の肩。
更に上へと上げた所で、漸くその顔を確認できた。
驚いたように自分を見下ろしている彼は、昨日と同じ人物。
彼の方も驚いた様子を見せつつも、昨日と同じように紅をきちんと立たせ、腕の皺を伸ばしてくれた。

「ごめん。前方不注意だった。まさか同じ角でまたぶつかるとはな」

驚いたよ、と笑いながら手を引いていく。
紅は思わずその腕を掴んだ。
驚く彼を他所に、とりあえず口を開く。

「あの、ごめんなさい!」
「いや、俺も注意力散漫だったから謝る必要はないよ」
「今日の事もそうだけど、昨日のことも。私、昨日一度も謝ってなくて、それで…!」

自分でも酷く混乱している事はわかった。
お礼だけは言わなければ、と昨日の後悔が彼女の背中をぐいぐいと押してくる。
その所為で、慌しく言葉を発することになり、今度は引っ込みが付かない。
そんな彼女を見て、彼はきょとんとした表情で笑顔を消す。
しかし、次の瞬間にはハハッと笑い声を上げた。

「そんなに慌てなくても、今日は急いでないから大丈夫」

落ち着きなよ、と頭にぽんと手を乗せられた。

「………とりあえず…ごめんなさい」
「うん、わかった。お互いに謝ったんだし、これで解決だ。異論は?」
「…いいえ」
「所で、怪我はなかった?」

紅がこれ以上謝らないように気を使ったのかもしれない。
即座に話題を変えた彼に、彼女は漸くその表情を和らげながら頷いた。

「二回とも支えてくれたから、大丈夫。ありがとう」
「いや、女の子にぶつかった方としては、その程度は当然だ。ただ、力加減が出来ていたか心配で―――」

言葉を濁す彼に、紅は腕の手形を思い出してピクリと反応してしまった。
腕を意識してしまったからだろう。
その変化は、相手にも伝わってしまったようだ。

「まさか―――」
「大丈夫。痛くないの。ただ…痕が、少しだけ」

嘘はつけなかった。
正直に話した彼女に、彼はそうか、と呟く。

「君、携帯は持ってる?」
「え。持ってるけど…」

何故携帯?と思いつつそれを取り出すと、貸してくれないかと問われる。
どこかに電話でもするんだろうか、と思いつつそれを手渡すと、彼は1分ほどそれを操作し、彼女に返した。

「咄嗟のことで加減を忘れてしまったのかもしれないな。もし痛み出したら、すぐに連絡してくれ」

え、と戸惑っている間に、窓ガラスの向こうの風景を見た彼が表情を変えた。

「すまない。練習が始まりそうだ。…いいかい、少しでも痛みが出たら、躊躇わずに連絡して欲しい」
「えっと、はい」

彼が去っていく。
それを見送って、紅は自分の携帯を見下ろし―――はっと気付く。

「名前、知らない…」

彼の名前を知るために、電話帳をほぼ全て確認することになってしまった。


大和猛―――二日の間に二度もぶつかってしまった、奇妙な繋がりの相手。

花言葉:究極美、崇高美

09.05.09