ペチュニア
「紅は帰らないの?」
「もう少しだけ」
「手伝おうか?」
「いいよ、これだけだから。また明日ね」
キュッと水道を閉め、マネージャーのまもりに向かって微笑む。
有無を言わさぬ様子の彼女に、まもりは軽く溜息を吐いた。
それから、また明日、と言い残して帰路につく。
ギィ、と部室のドアを開く。
すでに日も暮れたというのに、そこにはカタカタとキーを打つ音が響いていた。
「皆帰ったよ」
洗浄してきたドリンクボトルの籠を部室の隅に置きながら、紅は音の主に向かって声をかける。
「テメーも帰れ」
「アンタが帰るならね」
そう答えてから、スタンドの所に立ててあった部誌を引っ張り出す。
すでにまもりによって内容が書き込まれていた。
休み、の欄には誰の名前も書かれていない。
たった三人だけだった部員は、いつの間にか皆と呼べる人数になっていた。
名前の並んだロッカーを眺めながら、紅がぽつりと呟く。
「…増えたね」
「………」
「嬉しい?」
パイプ椅子に腰を下ろし、テーブルに上半身をだらりと横たえたまま、そう問いかけた。
蛭魔は紅の質問に無言を返す。
彼が素直に肯定の返事を返すとは思っていないし、また否定するとも思わない。
無言は妥当なところだろうと思う。
「私は嬉しいよ。アンタ達がずっと頑張ってたこと…知ってるから。
恐怖からじゃなくて、アメフトに留まってくれる子がいるって…嬉しい」
「…暇ならそのパソコンを使ってデータの整理でもしてろ」
そう言って、バサッとテーブルの上に置き捨てられる分厚い資料。
そこに書かれている字はまもりの物だ。
彼女は言うことなしに優秀なマネージャーだが、ハイテク機器にはとんでもなく疎い。
故に媒体が紙として嵩張ってしまうので、それをデータに起こすのは紅の仕事となっている。
写すだけなのだから楽なものだが、如何せんその量が半端ではない。
いつの間にこんなに溜まっていたのか、と紅は頬を引きつらせた。
はぁ、とため息をひとつ吐き出してから、一番上の紙に手をつける。
「………ねぇ、蛭魔」
ふと、キーを叩いていた紅の指が止まる。
シンと静まった室内に彼女の声が響いた。
「アンタ、もしかして…怪我でもしてるの?」
「あァ?んなわけねーだろうが」
「や、でも…」
フォームを確認するために撮影した写真をじっと見つめる紅。
相手がモン太で、真っ直ぐに飛んだボールがしっかりとキャッチされている。
投げる蛭魔と、ボールの軌道、そしてモン太がキャッチする瞬間。
その3枚を見下ろしていた紅は、そこに違和感を覚えたのだ。
「…ずれてる…よね。5センチくらいだけど」
本来ならば身体の真正面で受けているはずのボールが、少し中心からずれている。
モン太が相手だから、難なく受け止めているように見えるのだが。
紅の言葉に、蛭魔は手元から顔を上げた。
「…チッ。相変わらず妙なところで目敏い奴だな、テメーはよ」
「ってことは、否定しないわけだ」
やれやれ、と肩を竦め、パイプ椅子をがたんと言わせて立ち上がる。
きちんと保管してある救急箱を持ってくると、テーブルの上に置いた。
「手よね。出して」
返って来る沈黙。
紅はハァ、と溜め息を吐き出した。
問答無用で彼の手を取れば、指先に小さな傷を見つける。
別段、声を上げて怒るような傷でもないようだ。
綿に消毒液を馴染ませ、傷口を消毒していく。
傷の位置は確かにボールを持つ位置にぴったりだが、我慢強い彼が軌道をずらしてしまった事に疑問を感じる。
40度の高熱があろうと動きそうなものだが…練習だからだろうか。
手当てを終えると、終わったよ、と声をかけてから救急箱を治しに行く。
礼の一言もないのは彼らしい。
「…オイ」
「何?」
「帰るぞ」
そう言われて振り向けば、先ほどと変わらぬ姿勢で何かを読んでいる蛭魔が見える。
準備万全ではないのは、紅の用意がすぐに整わないことを知っているからだろう。
少し早めに声をかけてくれるところに優しさを感じると言ったら、大袈裟だろうか。
はーい、と間延びした返事をしてから、広げていた写真を集めていく。
ついでに、人物ごとに小分けしていたところで、あぁ、と納得した。
「…ごめんね、この一度だけだったのに…気付いちゃって」
痛む素振りを見せないようにしていた彼が、一瞬だけ気を抜いてしまった瞬間。
まさにその一度だけを撮影してしまったらしい。
先ほどから何となく不機嫌な空気を感じていたのはそれか、と思い当たった。
全員分の写真は、それだけでも結構な量になる。
分厚いデータをトントンと揃えてから、それの上に写真の束を載せて、保管用の籠の中に入れた。
すでにパソコンの電源は落としてあるから、後は自分の鞄を持ち上げればそれで準備は完了。
忘れ物がないかを確認するようにぐるりと部室の中を見回す。
狭かった部室は、1年足らずの間に人数に応じた広さに変わっていた。
狭くてボロボロで小さくて…そんな部室が、今は懐かしい。
そっと目を細めてから、紅は部室を出た。
「遅ェ!」
「はいはい」
ドアを出たところで待ってくれていた彼の第一声に小さく笑う。
そして、持っていた鍵で部室を施錠し、それと同時に歩き出した彼に続く。
「明日は午後から授業なしだから…部活時間が沢山取れるね」
「バテんなよ」
「あー…努力する。ドリンクも沢山要りそうだなぁ…買出しどうする?」
「ケータイから適当に使え」
「私は誰かさんとは違って平凡な神経しか持ち合わせてないので奴隷扱いは無理です」
泥門の生徒が見たら、きっとギョッと驚いた表情を見せるんだろうな。
そんな事を考えながら、紅は彼の隣を歩いた。
ポツリポツリと存在する街頭の明かりが、薄く二人の影を作る。
花言葉:和らぐ心、自然な心
08.08.03