トルコ桔梗
運命の出会いだ、と思ったことはない。
寧ろ、あの出会いは偶然だったのだ。
紅は特に期待することもなく、そう思っていた。
「あれ、また会ったね」
「あぁ。また会ったな」
諭吉さんの一件から二週間後、ランニング中と思しき様子の筧と出会った。
時間にすれば1時間と少しだったのだが、あの出会いは中々印象深い。
故に、そのまま他人のように通り過ぎることが出来なかった。
彼のほうもきちんと反応を返してくれる所を見ると、嫌われているというわけではないようだ。
「今日も精が出るね」
「あんたは…散歩中か?」
筧は走っていた足を止め、彼女を見る。
その姿を視界に入れれば、自然と隣に寄り添う犬にも目がいった。
ゴールデンレトリバーといえば、犬種としては割と有名だ。
筧もそれを知っていて、ごく普通の成犬として、大型の犬を思い浮かべていた。
そして、その予想を裏切らぬ大きさの犬が、そこにいる。
「あ、この子が前に話していたエリー。エリー、この間話してあげた親切なお兄さんだよ」
前半部分は筧に向かって、そして後半部分は愛犬に向かって声をかける。
まるで弟か妹に声をかけているみたいだ、と心中で笑った。
「でかいな」
「いやいや、筧君ほどじゃないよ」
「犬と比べる方がおかしいだろ」
思わずそう言えば、それもそうだね、と彼女が笑う。
「お、おぉ?」
ふと、彼女が奇声を上げた。
と言っても切羽詰った声ではなく、どちらかといえば戸惑いを含ませたそれ。
原因は、彼女の愛犬にあった。
その大きな図体を動かし、筧へと擦り寄っていったのだ。
結果、リードを短く持っていた紅も、彼のほうへと引っ張られてしまう。
この小さな身体では無理もない―――筧は、そう思った。
「人懐こいな」
「そう言う犬種だから」
「そうなのか?もっと気性が荒いのかと思ってた」
「んーん。若いからやんちゃだけどね。気性は荒くないよ。寧ろ、大人しい方」
大きな手で頭を撫でられるのが嬉しいのか、愛犬エリーは嬉しそうに尾を振って目を細めている。
犬種に輪をかけて、エリーという犬自体、とても人懐こい。
しかし、いつもに増して好意を前面に押し出している様子に、紅は「おや」と思った。
人間の言葉を完全に理解しているわけではないのだろうけれど…もしかすると、わかっているのだろうか。
もしそうならば、親切なお兄さんの話を言い聞かせた甲斐があったというものだ。
「いつもこうやって散歩してるのか?」
「うん。夕方の散歩は私の役目だから」
「…大変そうだな」
「散歩自体は大変じゃないよ?大変なのは―――」
その時、エリーが突然動き出した。
つられる様にして早歩きで歩き出す紅。
何とかとめようとするのだが、大型犬をとめるだけの腕力はない。
半ば、引っ張られるようにしてずんずんと歩いていく紅を見て、筧は苦笑した。
そして、駆け足で彼女に追いつくと、一旦リードを受け取ってエリーを引き止めてやる。
「―――こうやって引っ張られるとね、ちょっと大変。……いつも迷惑ばかりでごめんなさい」
「いや…。こいつ、結構力が強いな」
何かに興味を示している様子のエリーをぐっと押さえ込みながらそう答える。
自分でもそれなりの力で押さえているのだから、紅のような細腕では無理だろう。
「いつもはちゃんと言うことを聞いてくれるの。今日は、筧君に会ったから興奮してるのかな」
本当にそうなのかはわからないけれど、いつもよりやんちゃなのは確かだ。
いつもなら、きちんと躾けてあるので、紅が引っ張られることはあまりない。
「今から散歩に行くのか?」
「帰り道だよ」
「…送ってく」
そう言うと、筧はエリーを引き止めるのを止めた。
漸くか、とばかりに歩き出すエリーにあわせて歩を進める。
「え!?筧君、ランニング中なのに悪いよ!私なら大丈夫だから!」
「ここで見送って引きずられでもしたら、こっちの夢見が悪いだろ」
「いやいや、そこは私の運が悪かっただけだって!」
そう言いながら、紅は彼の隣を歩いて説得しようと試みる。
エリーの方はというと、いつもとは違う人がリードを握っているにも関わらず、きちんと歩いている。
この分ならば、きっと自分でも無事に家に帰ることが出来るはずだ。
もちろん筧もわかっているはずなのだが、依然として彼はリードを紅に返そうとはしない。
「筧君ってば!エリーもちゃんと歩いてるし、大丈夫だから」
「ちゃんと歩いてる?」
「え?違う?」
「こいつ、全力で引っ張ってる」
そう言われ、紅はエリーを見つめる。
…そう言われてみると、いつもよりハーネスの食い込みが激しいような気がする。
よく見れば、いつもは緩んでいるリードがぴんと伸びきっているではないか。
筧があまりにも平然としている所為で、エリーを押さえているのだとは思わなかったのだ。
「…この子、力が強くて大変でしょう?疲れない?」
「このくらいなら全然」
どれだけ腕力があるんだ、と言いたくなった。
なるほど、普段から鍛えている人は違う。
紅は今一度、エリーと筧を交互に見た。
この様子のエリーと無事に帰ることが出来るか―――紅は、頷けそうになかった。
「すみません。よろしくお願いします…というか、お願いしてもよろしいでしょうか…」
とても低姿勢なお願いに、筧は思わず笑ってしまった。
くくっと喉で笑ってから、彼女を見る。
「迷惑なら言わない。気にすんなよ」
「そう言うわけにも行かないけど…ありがとう」
そう言って、溜め息と共に彼の隣を歩いた。
年上の威厳も何もあったものじゃない。
元々、1年や2年早く生まれたからと言って、威厳がどうだとか考えるような性格ではない。
しかし…前回に引き続き、今回もこれでは、あまりに恥ずかしい。
次こそは名誉を挽回したいものだ。
「なんか、一年生とは思えないほど頼れる男だね。将来いい男になるよ、君」
ポツリと零した言葉に、筧が驚いたように彼女を見た。
その頬は、どこか赤らんでいるように見える。
彼の様子を見て、紅は「おや」と思った。
もしかして、照れたのだろうか。
こんな風にあっさりと女の子を守れるのに、そう言った面には随分と初心なようだ。
そのギャップに、紅はクスクスと笑う。
「…笑うなよ」
「いや…ギャップがいいね、うん」
「………リードを返すぞ」
「と言いつつ、絶対に返さないよね、君は」
優しいから、と告げると、図星だったのか彼はふいっと視線を逸らす。
アメフトをしている男子といえばガタイもよく、どこか近寄りがたい気がしていた。
しかし、彼は鍛えているからこそ、弱者を守るという考えが出来ているのだろう。
本当に、いい男だと思う。
「ありがとうね、筧君」
「…どういたしまして」
やや拗ねたような返事だったけれど、紅は満足そうに微笑んだ。
偶然も、二度重なれば必然だったと言ってもいいのだろうか。
出会うべくして―――なんて、少し重いことは思わない。
けれど、彼との出会いは、自分の人生にとっては価値のあるものだったと。
素直にそう思える出会いだということだけは、事実だった。
花言葉:よい語らい
08.06.27