トルコ桔梗
風の悪戯と言うのは、時として思いも寄らない展開へと事を運ぶものである。
そして、この物語の主人公となる彼女もまた、そんな数奇な悪戯に遊ばれた一人だった。
「うっわ!!飛ぶ、や、ちょ…あんたが居なかったら困る!!」
ヒュンと風に乗った紙幣。
因みにその絵柄は福沢諭吉。
正直なところ、彼に飛んで行かれては財布が痩せる。
物理的には紙切れ一枚分減るだけだが、その金額としては大きい。
「兄さんありがとう!また見つけたらお世話になるから!」
移動型のクレープ屋のお兄さんにそう声を掛けると、少女は慌てた様子でクレープを片手に駆け出した。
後にそのお兄さんが苦笑を浮かべていた事など、知る由も無い。
「おかしいな…この辺に飛んでいったはずなのに…」
中身が飛び出さないよう気を配りながら、クレープにかぶりつく。
値段の割に薄っぺらいと言う事も間々あるクレープだが、ここの物は中々ボリューム満点だ。
それを片手に、公園の垣根を覗いては一メートル進み、また覗く、を繰り返している彼女。
名前は雪耶紅。
年齢としては再来年の春前には大学受験を控える現役高校生だ。
ブレザーに身を包んだ彼女は、右を左をと宛てもなく探す。
10円玉ならまだしも、紙幣は諦められない。
生まれ持った諦めの早さを抑え込みつつ探す事数分。
漸く見つけた諭吉さんに、彼女の表情に笑みが浮かんだ。
だが、世の中とは上手くはいかないものである。
「………人を馬鹿にして…っ」
ギリッと握り拳を作り、そう呻く。
彼女がそんな行動にでるのも無理はなかった。
ヒラリヒラリと風に乗った諭吉さんは、公園の木の枝に引っかかっていたのだ。
ここで注目したいのは紅の身長だ。
現代の高校生の平均値ははっきりとは分からないが、それよりは低い。
160に2センチ届かない彼女の手は、諭吉さんにも届かなかった。
「そんな所に引っかかったらジャンプしたって届かんわっ!!」
そう怒った所で、都合よく紙幣が落ちてきてくれるはずはない。
届かないが、諦められない金額。
先ほどのクレープ屋のお兄さんならば届くだろうかと、紅は踵を返す。
が―――
「ぅわっぷ!」
クルリと振り向いた所で、何かに盛大に鼻頭をぶつけた。
ぶつかるような壁はなかったはず、と思いつつ、鼻を押さえて二・三歩下がる。
その正体を見極めようと顔を上げた彼女の視界に、少し草臥れた諭吉さんが映りこんだ。
「あんたのか?」
そんな声はお構い無しに、また飛ばしてなるものかとそれを引っ掴む。
しっかりと握り締めた所で、彼女は思い出したようにハッと我に返った。
握り締めた手から顔を上げれば、そこには苦笑した表情が…見えない。
自然に見上げた位置から更に上へと視線を動かし、漸くその人物と顔を合わせることが出来た。
「ほぇー…身長高いね」
「え、あぁ…よく言われる」
「うん、だろうね。言われなかったら不思議―――じゃなくて!」
普通に会話を続けてしまいそうになった紅は、慌てて言葉を切る。
それから、今度は一度でその人の顔を見上げて視線を合わせ、それからペコリと頭を下げた。
「ありがとう。お蔭でうちのエリーが夕食にありつけます」
「いや、別に…。…エリーって?」
「うちのゴールデンレトリバー。ご飯がなくなってるのに気付かなくて…そこのペットショップまで買出しです」
そこ、と指差した先にある、少し大きめのペットショップ。
なるほど、そのお金だから必死になっていたのか。
先ほどまでの彼女の様子を眺めていた彼…筧駿は、心中で納得したような表情を浮かべる。
「所で、お兄さんお暇?」
「俺?」
「私の前にお兄さん以外に居ないけど」
「…一応、ランニング中」
そう答えた彼に、紅は納得したようにポンと手を叩く。
確かに、今の彼の格好はランニング中そのものだ。
紅は上から下まで見てから、にこりと微笑んだ。
「買い物したお釣りでスポーツ飲料でもご馳走するから、もうちょっとだけ付き合って」
「別にいいって。大した事はしてない」
「よし。じゃあ、ここで待っ………ててもらうと、お兄さん居なくなりそうだね。すぐ済ませるから買い物も付き合って!」
買い物も、と言う辺り、彼女自身も余分につき合わせることになるのだと理解しているのだろう。
筧にとってはいっそこのまま帰らせてくれたほうがありがたいのだが、腕を掴んで歩き出されればそれも出来ない。
腕を振りほどく事は出来るけれど、自分よりも遥かに背が低く、華奢な身体つきの彼女だ。
下手な事をすると壊してしまうような気がして、無茶を出来ずにいた。
そして、その一瞬の迷いをいい事に、紅は彼を引きずってペットショップへと歩いてしまう。
それから、15分後。
すぐ済ませる、と言った通り、紅は迷う様子もなくドッグフードを購入して店を出た。
予定通りでなかったと言えば、購入した品が紅の手ではなく隣を歩く彼の腕に抱えられている事くらいだろうか。
「いやー…何から何まで面目ない」
申し訳なさそうにそういった彼女を一瞥し、筧は小さく溜め息を吐き出す。
何でこんな出会ったばかりの女に振り回されているのだろうか。
脇に抱えた10キロのドッグフードを見下ろし、もう一度息を吐く。
明らかに無理があるだろう、と言う細い腕で家まで抱えていくと言った時には、流石に呆れてしまったものだ。
腕を振るわせる彼女に思わず「運んでやる」と声を掛けてしまったのは今から5分ほど前。
別に重いと感じるわけではないのだから、構わないと言えば構わないのだが…。
「ところで、お兄さん名前は?私は雪耶紅。泥門高校の2年」
そう言うと、彼は驚いたように自分を見下ろしてきた。
その視線に首を傾げつつ、もう一度「名前は?」と問いかける。
「…筧駿。巨深高校…1年」
「え…お兄さん高校生だったの?」
「…あんたが年上だって事の方が驚きだ。…っていうか、そのお兄さんてのはやめてくれ」
先ほどの驚いた表情はそこだったのか。
お互いに、実年齢とは逆の印象を持っていたようだ。
紅は改めて隣を歩く彼を見た。
「それで1年…凄いね。スポーツやってるでしょ」
「わかるのか?」
「筋肉のつき方とかを見れば、何となくね。バスケ…にしては、上半身がしっかりしてるから…」
うーん、と頭を悩ませながら、次々に部活を思い浮かべてみる。
どうも、一般的な高校の部活ではないような気がする。
そこで紅はふと思いついたそれを口にした。
「アメフト…?」
「あぁ」
「へぇー。巨深ってアメフト部あるんだ。学校側は結構嫌がるんだよね、あの部活」
「そうなのか?」
「そ。結構激しいスポーツでしょ?母親が教育委員会に居るから、そう言うのに敏感なの」
そう言ってから、彼女は目に付いた自動販売機に近づいていく。
その傍で小銭を探しつつ、もう片方で彼を手招きする。
どれがいい?と問いかけ、小銭を入れてから彼が答えたドリンクのボタンを押した。
ガコン、と音を立てて落ちてくるそれを拾い上げ、自分の分はお茶を買う。
「それにしても…巨深ってここから離れてるよね。そんな距離ランニングしてるんだ…疲れない?」
「…別に…普通」
「ふぅん。そう言うもんなのかな」
それから暫く歩いて紅の自宅につくと、じゃあ、と言って筧が帰っていった。
その背中を見送りながら、門に凭れた紅はふと今日のことを思い出す。
ふふ、と小さく微笑み、それから今月の予定を思い出した。
来週末に試合があると言っていたから、興味はないけれど一度見に行ってみようか。
「…結構面白い時間だったなー」
そんなことを呟き、ただいまー、と玄関のドアを開ける。
そして、帰路を走る筧もまた、同じようなことを考えていた。
もちろん、お互いの心中など知る由もない。
花言葉:よい語らい
08.04.20