向日葵
「俺が言った」
騒然となった観客席の中に、大して大きくもない声が響く。
紅は、それを言ったのが隣に座る陸だと理解するまでに3秒かかった。
「陸!?何を考えてるの!!」
観客席から降りた峨王を追うようにして立ち上がった陸の腕を掴む。
陸は何も言わずに紅の頭を撫でてから、その手を解いた。
ここに居ろというかのように、彼の手がトンと肩を押し、軽く上げた腰はストンと観客席に逆戻り。
それ以上引き止める間もなく、彼は観客席を降りて行ってしまった。
陸に向かって差し出された手は、彼に触れる前にぴたりと止まった。
「お前じゃない」
峨王ははっきりとそう言った。
彼が、試合に敗れた人間を笑うような人であるはずがないのだから、当然だ。
隠されている白秋の情報を得ようとした―――それが、陸の行動の理由らしい。
その後に白秋のメンバーであるマルコが、慌てた様子で峨王を連れ戻しに来た。
いくら取り繕おうとも、これがドッキリではないことくらい、その場にいる誰もが理解している。
マルコに連れられてその場を去ろうとする峨王。
その頃になって観客の合間を縫ってそこに降りてくることが出来た紅は、すぅ、と息を吸い込んだ。
「ちょっと待ちなさいよ。
フィールドの外で公共物を破壊した上に、観客に恐怖を与えて…そのまま帰ろうって言うの?」
「紅!?」
「陸は黙ってて」
そう言って、紅は峨王を睨みつける。
彼らの一挙一動に着目していた観客席の人間も、フィールドの人間も。
皆が、それに注目した。
「さっきの事は、確かに番場さんを笑った人が悪いわ。
でも、何かを破壊する必要も、ここに居る人を恐がらせる必要もなかった」
紅はそこまで言うと、一旦息を吐き出す。
そして、真っ直ぐに彼を見上げた。
「恐ろしいほどのパワーで…正直、恐いと思うけれど。それも、アメフトの試合中なら賞賛に値する腕力よ。
でも、フィールドの外で使うような力は…ただの暴力でしかないわ」
静まったその場に、観客席の中から少しずつ戸惑いの声がこぼれ始める。
あの女、殺されるぞ。
先ほどの怪力を目の当たりにした観客の誰かが、そう呟いた。
そんな風に静かにざわめく周囲を気にしながらも、青褪めた様子で紅を見つめるメンバー。
言わずもがな、紅と馴染み深い泥門の生徒たちである。
「紅先輩…やばいんじゃねぇのか…?」
「う、うん。でも…」
どうしようもない、と小さく口を動かす瀬那。
紅、と呟くまもりの声が、聞こえた。
正義感の強い彼女が紅を庇いに走り出さなかったことは、不幸中の幸いと言えるだろう。
彼女が走り出していれば、状況はより混乱していただろうから。
チッと言う舌打ちが聞こえた。
「あの馬鹿が…」
そう言いつつも、蛭魔はいつでも観客席から出られるような姿勢だ。
誰もがどうしようと思いつつも動かない状況で、一人だけ紅の元へと近づいた人がいた。
「そこまででいいよ、紅ちゃん」
「キッド」
「紅ちゃんの言いたいことは、彼にも伝わったはずだ。これ以上の睨み合いは悪戯に不安を与えるだけだよ」
年長者と言うわけではないけれど、キッドは至って冷静に対処した。
紅自身も怒りを燃え滾らせていたわけではない。
状況を収束させようとするキッドを押しのけてまでこれ以上何かを言うつもりもなかった。
紅は、溜め息と共に視線を外した。
「…女」
「…雪耶って言う名前があるんだけど」
不愉快そうに表情を歪める紅に、峨王がニヤリと口角を持ち上げる。
キッドの登場により少しばかり緩んだ空気が、再度緊張した。
「アメフトが好きか」
「………そうね。凄いプレイヤーは、素直に凄いと思うわ」
だからこそ残念だ、とは言わなかった。
紅がわざわざ彼を引き止めてまで一言言いたかった理由は、そこにある。
陸が巻き込まれたことも腹は立ったけれど、それだけならばこんな無謀なことはしない。
嘘だとしても、彼自身が犯人だと名乗り出たことに変わりはないのだ。
彼女がどうしても止められなかった理由―――それは、プレイヤーが鍛えた力を『暴力』に使おうとしたから。
その思いを正しく理解できた人間が、この場に何人いただろうか。
殆どは彼女を正義感の強い無謀な人間と受け取っただろう。
「そうか。……悪かったな」
告げられた言葉に目を見開く紅を放置し、峨王は踵を返して立ち去る。
彼の言葉に驚いたのは、もちろん彼女だけではない。
あの峨王が…心が篭っていなかったとしても、謝罪の言葉を口にしたのだ。
信じられないものを見るような目が、消えた峨王から紅へと向けられる。
「…紅ちゃん…君、凄いわ」
負けたよ、とばかりに苦笑いを浮かべ、キッドがそう呟いた。
「えっと…雪耶…さん?」
そう呼ばれた紅は、声の方を向く。
先ほど峨王を止めに来て、その後は口を挟まずに…いや、挟めずにいたマルコ。
「無茶すんね、君」
「…別に」
「でも、うん。まさかあの峨王が謝るとは―――ただモンじゃないっちゅう話だよ」
一見するととても高校生には見えない彼は、そう言って肩を竦める。
そして、紅に向かって手を差し出した。
「円子令司。白秋1年のクォーターバック」
「…雪耶紅よ。泥門の…2年」
「へぇ、年上。もしうちと当たったら応援よろしく」
「西部に勝ってから言って欲しいわね」
迷いなくそう答える紅に、マルコの視線がキッド、陸と移動する。
そして、なるほど、と持ち上げられた口角。
しかし、それ以上は何も言わず、肩にかけた上着を翻して峨王が去っていった方へと歩いていった。
ここで漸く、空気の緊張が完全に解けた。
「紅っ!!」
少し後ろに居たはずの陸が、いつの間にか目の前にいる。
彼の俊足は今に始まったことではないので、紅は慣れた調子でスッと耳を塞いだ。
「何て無茶すんだよ!心臓が止まるかと思った!!」
軽く塞いだだけだったとは言え、目の前で怒鳴られれば耳が痛い。
暫く怒鳴り続けた陸が落ち着いたところで、紅はやれやれと手を離した。
「仕方ないじゃない。止められなかったんだから」
けろっとした様子でそう答えた彼女に、陸は深々と溜め息を吐き出す。
「大体、陸だって。笑うなんてありえないのに、犯人だって名乗り出て…どうするつもりだったの?」
「スピードで逃げる」
「逃げるなら名乗り出る必要もないわね。峨王が予想外に冷静だったから良かったけど…」
「お、俺はいいんだって!」
「良くないわよ。こっちがどれだけ心配したと思ってるの。一瞬、頭がおかしくなったのかと思ったわ」
「いや、それは俺のセリフ…」
「元はと言えば、陸が名乗り出た所為でしょう?
全部があなたの所為だとは言わないけど、引き金であることは確かよ」
いつの間にか形勢が逆転している。
怒鳴らないだけに、理路整然と咎められれば、自然と足が後ろに下がってしまう。
何だかんだと言っても…彼女の怒りは完全に解けてはいないらしい。
彼女に迫られて口元を引きつらせるエースに、キッドはテンガロンハットを下げた。
花言葉:私の目はあなただけを見つめる。
08.10.05