向日葵
彼の携帯にメールを入れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
校門が見える喫茶店の窓際に腰を下ろし、既に1時間と30分。
注文したコーヒーは既に冷め切ってしまっている。
また一人、校門から出てくる生徒。
しかし、紅の望む姿ではない。
またひとつ、彼女はその唇から溜め息をこぼした。
「すみません。追加注文をお願いします」
先ほどからチラリチラリとこちらを見ていたウエイトレスを呼ぶ。
はじめの注文だけで居座る客に対しての不躾な視線を止めさせる為と、美味しい飲み物で自分を潤す為。
新たに頼んだのもまた、温かいコーヒーだ。
他の飲み物が嫌いなわけでも、コーヒーが好きなわけでもない。
ただ、これを飲んでおかないことには瞼が重くなってしまう。
テスト明けの身体に、この暇な時間はあまりにも辛過ぎた。
「お待たせしました」
追加注文したコーヒーがテーブルの上に置かれ、湯気を失ったカップが下げられる。
ありがとう、と小さく告げ、再び視線を校門へと移動させた。
まだまだ運動部の姿は見えない。
テスト明けの身体に鞭打つような激しい部活が終わり、疲労を肩に背負ったままユニフォームを着替える。
着慣れた制服に袖を通し、軽く折りたたんだユニフォームを鞄に入れる。
そこで、ふと鞄の隅に入れていた携帯が点灯していることに気づいた。
また要らぬ迷惑メールだろうか…そう思いつつ、それを確認する。
「……は?」
思わずそんな声が零れ落ち、部室内のいくつかの視線が彼へと向けられる。
そんな視線に気づくことなく、彼はバッと勢いよく壁にかけられた時計を見上げた。
携帯のディスプレイには、その右隅に現在時刻を示す時計が常に表示されている。
にもかかわらず、何故か別で時計を探してしまうのは、最早癖なのだろう。
長針と短針の位置を見た彼は、うわ、と呟く。
メールの受信時間は現在時刻から2時間も前だ。
「陸?」
「すみません!お先に失礼します!!」
バンッと勢いよくロッカーを閉じた彼は、そのまま鞄を肩に担いで部室から飛び出していく。
それを見た彼の部活仲間が慌てたようにその名を呼んだ。
「陸!飯食いに行くんじゃなかったのかー!?」
昨日の練習の後、皆で話をしていてそう決まったのだ。
全員参加と言うことで、この後学校近くのファミレスに移動することになったはずなのだが…。
先輩の声に、既に小さくなり始めている彼は首だけを振り向かせた。
「また今度にしてください!!」
本当にすみません、と聞こえてくる声もかなり小さい。
アメフト部屈指の速度を誇る彼の全力疾走だ。
その姿はすぐに見えなくなった。
「な、何か陸が飛び出してきたんだけど…何事?」
顔を覗かせたマネージャーの質問に答えられる者はいない。
ドアに近い位置でベンチに腰掛けていた男が一人、やれやれと肩を竦めた。
「まぁ、大事な用があった…って言うより、出来たんだろうねぇ」
なんとなく、彼にはその理由が分かっている。
テンガロンハットをくいっと下げ、その口元だけで小さく微笑んだ。
校門から猛スピードで走ってくる姿に気づいた。
あの時間に送ったメールを今見たとすれば彼ならそうするだろう、と頷ける光景だ。
何時間も待たせているとわかってのんびり歩いていられるような性格ではない。
疲れているのに悪い事をしたな、と思いつつも、自然と口元が緩んでしまう。
「ごめん!めちゃくちゃ待たせた!!」
喫茶店に駆け込んできた彼の第一声。
予想通りの声に、紅はにこりと微笑んだ。
「ううん。こっちこそ、走らせてごめんね」
肩で息をしている彼に、飲む?とグラスに入った水を差し出す。
残念ながら、これ以外に一気に飲める飲み物はない。
コーヒーは一気に飲み込むにはまだ少し熱いだろう。
「まさか、待ってるなんて思わなくて…」
差し出した水を飲み、呼吸を整えた陸がそう告げる。
そんな彼の言葉に、紅はこともなげに答えた。
「待ってるって言ったら絶対に反対されただろうから、わざわざ部活が始まってからメールしたの」
部活前にそれを知ってしまえば、彼はそれを反対してきただろう。
それを宥めて待つことを許してもらっても、きっといつものようには集中できない。
こんな些細なことで彼の集中力を削いではいけないと思い、あえてメールを送信する時間を遅らせたのだ。
彼女の予想通り、彼は部活後にそれを確認し、そして今目の前にいる。
「何か注文する?」
「いや、俺はいい」
「そう?じゃあ、もう出ようか。話は歩きながらでも出来るし」
そう言うと、彼女は伝票を持って立ち上がる。
そんな彼女に続くようにして、陸も椅子に置いた鞄を持ち上げた。
「払うよ」
「駄目。飲んだのは私なんだから、自分の分くらいは払います」
迷う余地すらなく、彼女は即座にそう答えた。
彼女らしい答えだが、それで引き下がっていいものだろうかと少し悩む。
もちろん、その少しの間に彼女が支払いを済ませてしまうのだが。
「陸?置いていくよ?」
ドアのところで止まっている彼女に気づき、慌ててそれに続く。
ありがとうございましたー、と言う声に見送られ、二人は寒空の下へと歩き出した。
「…ごめんね。疲れているのに、会いにきて」
これといった会話もなく歩いていると、不意に紅がそんなことを呟いた。
彼女の言葉に、陸はあー、と言葉にならない声を発し、それから頬を掻く。
「本当は、帰りに寄ろうと思ってたんだ。…先を越されたみたいになったけど」
俺も会いたかったしさ。
その言葉は小さかったけれど、静かな夕暮れの道で相手に届けるには十分な音量だった。
紅は少しだけ頬を赤く染めて、それを隠すように鞄を抱えなおす。
「…寄って行く?」
「うん。そのつもり」
「じゃあ…疲れてるところに申し訳ないんだけど…買い物…行ってもいい?」
躊躇いがちのお願いに、陸は今日の曜日を思い出した。
そう言えば、彼女がいつも帰り道に買い物をしていく曜日だ。
疲れている自分を連れまわすことに抵抗を感じているらしい彼女。
部活で培われた体力にはちょっとした自信を持っている陸は、この程度で音を上げるほど柔ではない。
「いくら部活帰りって言っても、荷物持ちくらいは出来るって」
「ホント?じゃあ、いつもより多めに買っておこうかな」
「…や、そこは遠慮するところだろ」
「冗談よ。でも、少しは多くなるかな」
食べていくでしょう?と言う彼女の問いに、素直に頷く陸。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「どの道、今日は帰りに部活仲間と食べに行く予定だったから、夕飯要らないって言ってたんだ」
「え…あ…ご、ごめん」
仲間との時間を邪魔する結果になってしまい、申し訳ないと言う思いがこみ上げる。
昨日のうちに連絡しようと思っていたのだが、色々と立て込んでいて気づいたら日付が変わっていた。
流石にこの時間から電話するのはまずいだろうと思い、放課後の連絡になってしまったのだが…。
こんなことなら、ちゃんと連絡しておくべきだったと反省する紅。
「いいって。あいつらとは嫌でも毎日顔を合わせるんだからさ」
その点、学校の違う彼女とは機会がなければ会えない。
どちらも部活が忙しいと言うこともあり、中々都合がつかないのだ。
「ほら、早く行かないと夕飯がどんどん遅くなるだろ?」
冷えてしまっている手を、陸が掴んだ。
少しだけ足を急がせるようにした彼に続くと、軽く足をもつれさせてしまう。
もちろん、しっかりと繋がれた手が転倒を防いでくれたけれど。
「相変わらず冷たい手だな」
「手が冷たい人は心が温かいんだって」
「じゃあ、その逆は?」
「…言わないんじゃないかなぁ。陸の手は温かいけど、心が冷たいとは思わないし」
「冷たくないんだ?普段全然会えないし、休日も返上で部活してんのに」
「私も似たようなものだし。会える時には会ってくれるから…冷たいと思ったことはないよ」
「…そっか」
照れたように彼の視線が逃げる。
そんな様子を、紅は楽しげに見つめていた。
「夕飯何が食べたい?」
好きなものを作ってあげる、と言うと、彼の視線が戻ってくる。
現金だなぁと思いつつも、その目に見つめられるのが好きで仕方がない。
「何か腹に溜まるもの」
「じゃあ、パスタとかは駄目ね。膨大な量になっちゃう」
クスクスと笑いながら、頭の中でメニューを考える。
パスタなどは一度練ってあるために、腹持ちが悪い。
「冷凍庫に豚肉があったから…しょうが焼きとか」
「何でもいいよ」
「じゃあ、それにしよう。良かった。あの豚肉が使えなくて困ってたの」
「?」
「安売りしてたから、つい多いのを買っちゃって。とても一人では食べられなかったから」
「分けて使えば?」
「一度冷凍したら、すぐに使わないと。生憎うちの冷凍庫はしっかり冷凍してくれるからねー…包丁じゃ歯が立たないの」
「そう言うもんなんだ?」
「そう言うものなのよ。一つ賢くなった?」
「…役に立つかはわからないけどな」
「一人暮らしには必要な知識だと思うよ。冷凍する時には小分けにすべき、ってね」
花言葉:私の目はあなただけを見つめる。
08.03.28