Tone of time
「こんな所にいたんだ?」
背中から声をかけられても驚きはしない。
家庭環境の都合で、人並み以上に人の気配に敏感になってしまったから。
尤も、それだって人の背後を取るのが大好きなこの声の主ほどではないけれど。
「…こんばんは」
「うん。こんばんは」
とりあえず、何を言うでもなく夜の挨拶を口にすれば彼、アルバロは苦笑気味の表情で同じように返す。
「それにしても…意外だな。君がここに来るなんて」
そう言った彼は、コウを通り越して壁、ではなくそこに掛けられている絵を見た。
不思議な絵と呼ばれるそれは、女子生徒の中で知らない人はいないだろうと言うくらいに有名。
自分が一番思う人が映ると言われているそれを噂するのは、年頃の娘としてはごく普通なのかもしれない。
たとえば自分の望む人の一番が映る絵だったすれば、もっと重宝されているのだろうけれど。
「自分の心が知りたくなった?」
「別に。どの程度の時間で絵に映った人が消えるのかと思って見ていただけよ」
そう言って肩を竦めるコウ。
彼女が今この場にいるのは、アルバロが言うように自分の心を知りたかったからではなく、偶然だ。
通りかかった時に見知らぬ女子生徒が絵に呪文を唱え、自らの心を映していた。
彼女は頬を赤くし、そのまま魔法を解除もせず走り去ったのだ。
その光景を見ていたコウはふと、魔法の効果はどの程度持続するのだろうかと疑問を抱いた。
彼女はただ、その疑問を解消すべく絵の前に佇んでいただけなのである。
それを説明すれば、アルバロは特に残念そうな様子もなくふぅん、と頷いた。
「それで、結果は?」
「かけた魔法の強さにも関係するでしょうけれど…半時間ほど、かしら」
「半時間も自分の心を公開し続けるわけか。使用後は解除すべし、って注意書きでもしてあげれば?」
「嫌よ、私に関係ないのに」
間髪容れずにそう言えば、彼は愉快そうに笑い声を上げた。
「君のその、博愛精神の欠片もないところってすごくいいよね」
「…褒めてないわよね、それ」
「ううん。褒めてる」
どこまでが本心だか、と思いつつ、溜め息を一つ零してその場を立ち去ろうとする。
しかし、それを呼び止めたのは他でもない彼だ。
「コウが使えば誰が映るのかな?興味ない?」
「そうね。自分の事とは言え、興味はないわ」
わかりきっているもの、と呟けば、彼はそう?と笑った。
そして、立ち去ろうと絵に背を向けていたコウをくるりと反転させ、再び絵と向き合わせる。
「俺は誰が映るのか興味があるから、試してよ」
「………傍迷惑な好奇心ね」
そう嫌味を言ったところで、彼の心はチクリとも痛まない。
寧ろ、試すまで放さないと言いたげに、両肩を掴まれている。
コウは深い溜め息と共に右手を持ち上げた。
シャラ、と幾重にも巻きつけられた細い鎖が軽やかな音を奏でる。
片方の端に繋がれた繊細な文字盤の上を、彼女の魔力を帯びた秒針が音もなく動きだした。
「レーナ・ルーメン」
不本意ではあるけれど、仕方ない。
呪文を唱えれば、小石を投下された水面のように絵の中に波紋が広がる。
そして―――
腹を引きつらせんばかりに笑うアルバロは、恐らく心から笑っているだろう。
周囲にあわせる偽りの彼ではなく、本当の彼。
こんな形で本質を出されても全く嬉しくはないけれど、こちらの気持ちなど彼には関係ない。
魔法を解除して、笑い続ける彼の腕を引いて玄関まで戻ってきたのだが…彼はまだ、肩を震わせている。
「本当に君は…予想外すぎて困るね。ルルちゃんとは違った意味で面白いよ」
「あなたの“面白い”は素直に喜べないわ」
「あー…久し振りに笑わせてもらったよ。
エストくんか、もしくは…俺が映るかなって少しは期待したんだけど、自惚れだったかな?」
「そうね。自意識過剰である事に間違いはないと思うわ」
尤も、彼以上にコウに深く関わっている人なんて、エスト以外にはいない。
消去法で考えれば彼かエストが映る―――そう考えたのだろう。
「まさかあそこで自分自身を映すとはね!君らしくて面白いよ、本当に」
不思議な絵の中に映ったのはコウ自身の姿。
つまり、彼女の中では自分が一番と言う事だ。
ある意味では、自らの心に一番正直な結果だと言える。
自分が大切じゃない人なんて、この世に一握りしか存在しないだろうから。
いないと言えないのは、エストが自らの存在を軽んじているのを知っているから。
「だからわかりきっているって言ったのよ。私は、私が一番大事だもの」
「うん、正直だよね。そう言う貪欲さは人間らしくていいんじゃない?」
どうやら、彼にとっては好印象の結果になったようだ。
未だに笑いの発作が続いているのか、会話の途中でも時折笑いを零す。
今の彼とはまともな話は出来そうにない―――コウは早々に女子寮へと向かって歩き出す。
「おやすみ、コウ。また明日」
そんな声に見送られ、鏡を通り抜けた。
きっと、明日になればいつものように玄関のところで彼が待っているのだろう。
「あ、コウさん。こんばんは!」
廊下の向こうから歩いてくるルル。
コウに気付いた彼女がパッと表情を輝かせた。
彼女の笑顔はとても可愛らしく、見るものを優しい気持ちにさせる。
さすが、エストの心を動かすだけの事はあると思う。
「こんばんは。今から出掛けるの?」
「あ、はい!えっと…不思議な絵のところまで」
照れたようにはにかむ彼女に、コウはそう、と頷く。
そこで、ルルは思い出したように首を傾げた。
「コウさんはあの絵に魔法を使ったことはありますか?」
「…ええ、さっき使ってきたわ」
「本当ですか!?映ったのはやっぱりアルバロ?」
やや興奮気味の質問に、大笑いしたアルバロを思い出した。
彼女に罪はない―――脳内で笑い続ける彼を隅へと追いやり、微笑む。
「自分が二番目に思う人が映るなら―――ルルの思うとおりだったでしょうね」
そう言うと、コウの答えに疑問符を浮かべる彼女に「あまり遅くならないようにね」と言い残して立ち去る。
この後、寮を出た彼女が未だそこにいたアルバロと言葉を交わす事になるのだが、コウは知らない事だ。
「あれ、アルバロ?」
「やぁ、ルルちゃん」
「どうしたの?すごく楽しそうね」
「うん。ちょっと…いや、かなり楽しい事があってね」
「ふぅん…あ、さっきコウさんに会ったのよ!って…もしかして、アルバロが一緒だった?」
「そうだね。何か話したの?」
「絵の話をしただけよ」
「そっか。何か言ってた?」
「何が映ったのかは教えてくれなかったけど…二番目に思う人が映るならアルバロが映るだろうなって。
ん?って事は、コウさんが一番に思う人はアルバロじゃないって事…?」
「…二番目、ね」
「…アルバロ、一番じゃないのに嬉しそうだね」
「そりゃ、ね。二番目なんて、すごく名誉な事だからさ。―――明日会うのが楽しみだな。おやすみ、ルルちゃん」
「おやすみ―――って、行っちゃった。何で二番目が名誉なんだろう…?」
10.07.17