Topaz 10
ガタンッと椅子が盛大な音を立ててHRの時間の邪魔をした。
床に転がったそれと、そしてその原因となる人物にクラスの視線が集中する。
しかし、その本人はそんなことは気にならないほど黒板の方を見つめて指差した。
そんな彼の反応に、指差された本人―――紅はそっと苦笑を浮かべるのだ。
次いで、彼が一身でクラス中の視線をかき集めているのをいい事に、彼女は自身の唇に人差し指を添える。
喋るな、と言う意味をその行動に含ませて。
幸か不幸か、用意されていた席と言うのが彼の隣。
そして、このクラスで一人の顔見知りはその前。
何とも偶然にしては出来すぎている席順に、紅は人知れずため息を零す。
集る女子の視線の質を見れば、自ずと彼らの人気っぷりが窺えるというものだ。
「忍足ー。HRを潰した責任でお前が学園内を案内しろ」
「え?ちょ…」
案内係に任命された彼が引き止める間もなく、担任は早々に教室を後にする。
入れ替わりのように一時間目の数学教師が入ってきてしまえば、それ以上彼を追うことも出来ない。
いつも5分前行動を実践してみせる数学教師をこれほど憎いと思ったことはなかった。
「どう言うことなん?」
「担任の先生が話していたように両校の交流を深めるために生徒を交換するの」
で、それに任命されたってわけ。
前もって教師から渡されていた数学の教科書を開きながら紅は答える。
授業の進み具合から見てもさほど青学と差があるわけではないらしく、内容的には問題なさそうだ。
「…そんな大事な話、俺聞いてへんねんけど…?」
「言ってないからね。驚いたでしょ?」
にっこりといっそ清々しい微笑みを浮かべ、彼女は言う。
お互いに声を潜めて言葉を交わしている為に、他の生徒や教師は気づいていない。
尤も、物珍しいものを見るような視線は付きまとっているが。
「…心臓に悪いからやめて欲しいわ…」
「思いっきり名前で呼びそうだったもんね」
「別にええやん?こんな美味しい事二度とあらへんかもしれへんし」
「…そういう問題でもないんだけど」
苦笑交じりに彼女はそう答える。
しかしながら、忍足の言っていることも彼女にはよく理解できた。
二人とも別の学校に通っていると言うこともあり、本来ならばこうして机を並べるなど不可能。
夢のようだ、とまで言ってしまえば大げさだが…新鮮であることに変わりはない。
「そうだな…では、この問題を―――雪耶」
「はい」
「この単元は習ったか?」
「…大丈夫です」
その問題に視線を走らせた紅は、僅かな沈黙の後そう答える。
尤も、彼女の沈黙の意味を悟ったのは隣に座る忍足くらいのものだろう。
彼女の答えに気をよくした教師はそれならば、と彼女にその問題を解くよう促す。
クラスの視線を貼り付けながら黒板へと進むと、紅は受け取ったチョークをそこに走らせた。
二行ほどの解答を書き上げると、彼女はチョークを教師に渡す。
教科書通り…寧ろ教科書よりもわかりやすい解答に教師だけでなくクラスメイトまでもが感心した様子だった。
「…完璧だな」
「ありがとうございます」
そう言って彼女は自身の席へと戻る。
「…まだ習ってへんねやろ?」
「あぁ、気づいた?」
席に戻って彼女がひと段落ついた所で、忍足はそう口を開く。
先程の沈黙の意味するところは、習っていないのに解いてもいいのだろうかという彼女の一瞬の迷い。
「予習の癖がついてるからね…。教科書の内容は一通り出来るようになってるの」
「…流石」
「あ、そう言えば…」
思い出したように話を変えると、紅は前に座る彼の背を指で突いた。
それに気づいた彼が振り向く。
相変わらず練習熱心なのか、彼の頬には引っかき傷に似たそれがちょこんと鎮座している。
「二つ向こうのクラスに悠希が来てるわよ」
「はぁ!?」
「宍戸、何か質問か?」
教師の声にはっと我に返り、何でもありませんと腰を下ろす宍戸。
そんな彼を見て紅はクスクスと声を漏らさないよう笑った。
「何や、佐倉も来とるんか」
「私たち、優秀ですから」
そんな風に話しながらもちゃんと黒板に書かれた内容を書き取っている辺りは二人とも抜け目がない。
綺麗に纏められたノートを見れば、彼女が普段から真面目に取り組んでいるのが良くわかる。
「今日はここまでだな」
そんな教師の声を追うように授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
すぐに紅の周りに集ろうとしていた生徒から逃げるように、紅は忍足に連れられて教室を出て行った。
先程の話の続きが気になるのか、宍戸もその後を追う。
「二つ向こうっちゅーと…跡部のクラスやん」
「…うわぁ…教師が可哀想…」
「………だな」
「…宍戸、そこは彼氏として否定してあげれば?」
「…無理言うなよ。事実を否定は出来ねぇだろ」
宍戸の溜め息交じりの言葉に、忍足と紅はそんなことはないとは言えなかった。
あの二人を同じ教室に入れて何事も起こらないはずがない。
紅は普通に青学交換生としてその優等生振りを発揮していた。
一日で彼女のファンが付くほどだったのだが、彼女自身はそれを知らない。
「紅を送って帰れる日が来るとは思わんだわ」
「私も。一緒に帰れるのって嬉しいね」
素直に嬉しそうな表情を浮かべる彼女。
手を繋いで、一緒に帰路について。
初めて学生らしい付き合いをした二人だった。
因みに本日一時間目の跡部クラスでは―――。
「何でてめぇがこっちなんだ!」
「私だって紅と一緒が良かったわよ!
あっちなら亮も居たのに…何が悲しくて景吾と一緒に勉強しなきゃなんないの!?」
「こっちが願い下げだ!紅が来るって言うから俺のクラスに招いたっつーのに…」
「あら、それは良かったわね。紅はちゃんと彼と一緒のクラスよ」
「………跡部くん、佐倉くん…そろそろ授業を始めたいんだが…」
「「うるさい!こんな簡単な問題がやってられるか!!」」
二人ともかなり成績優秀なために余計に性質が悪い。
普段は跡部様と黄色い声を上げるようなクラスメイトでさえ口を挟むことができなかった。
気の弱い理科教師は一人寂しく溜め息を零す。
後日、跡部の珍しくも声を荒らげるレアな写真が学園内のファンに売りさばかれていた。
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06.02.18