スイートピー
丸井 ブン太

「―――い、おい、紅!!」

遠くから何度も呼ばれ、紅は仕方なく顔を上げた。
顔を上げれば嫌でも太陽の日差しが目を刺激する。
眩しさに細めた視界の中で、ブン太が不満げな表情を浮かべているのが見えた。
遠く、と思っていた距離は随分と近い。
どうやら、自分の世界に夢中になるあまり、壁を作ってしまっていたようだ。

「ブン太?」
「ったく…何度も呼んだんだぜ」
「あー…ごめん」

とりあえずそう謝るものの、彼の表情は変わらない。
その目が彼女の手にあるものを見つめる。

「海に来てまで読書はねぇだろぃ」
「だって…もうすぐ終わりなの。今日で読み終わらせるつもりだったのに、真田が」

続きは言うまでもない。
ブン太の声を聞いたこと、話している今は一度も本に視線を落としていないことだけでも十分だと言える。
彼女は本に集中すると周りの全てを遮断してしまうから。

「…もし、真田が強引に誘ってこなかったら?」
「その時は、明日に回したけど」

さも当然のことのように答える彼女に、自然と口元が持ち上がってしまう。
真田が誘ってこなければ二人で出掛ける予定だったのだ。
その時は気になる本の終盤よりも自分とのデートを優先する―――それを聞いて喜ばない男がどこにいるだろう。

「…な、ちょっとそれ置かねぇ?」
「どうせ炎天下じゃ集中できないし、別にいいけど…」

どうしたの?と問いかける彼女に、ブン太はニッと口角を持ち上げた。

「面白ぇもんが見れんだよ」

そう言って差し出された手。
開いたままだった本に栞を挟み、ゆっくりとその手に自身のそれを重ねた。
よっとこちらを気遣った力で引っ張られ、砂地の上に敷いたシートの上から腰を上げる。

「どこに行くの?」
「あっちの岩場」
「………」

もしや“あっちの岩場”と言うのは、先ほど真田が歩いていき、それを追うように悠希が歩いていった所か。
何となく嫌な予感を覚えた紅は、ブン太を見る。
表情に出ていたのかもしれない、彼がいたずらめいた笑みを浮かべるのを見て、確信した。

「ブン太、あんたねぇ…」
「俺たちも散々迷惑かけられてんだぜ?この位構わねぇだろぃ!」
「いや、真田は仕方ないとしても…悠希ちゃんが可哀想…」
「あー…それは、真田を選んだ時点で諦めるしかねぇな、うん」

ブン太の答えに、はぁ、と溜め息を吐き出した。

「どこ行くんや、お二人さん」
「ちょっとそこまでー」

こちらの動きに気付いたらしい仁王が目ざとく声をかけてくる。
その隣では、柳生と柳が何かを話し込んでいるようだ。

「出来ればそっちの方には行かんでほしいんやけど」
「何でだよ?」
「お姫さんと約束しとるんでな」

珍しく、仁王が二人をお膳立てしているようだ。
へぇ、と感心する紅の隣では、止まる気のないブン太が岩場を意識している。

「そういう事情ならブン太を止める事も吝かじゃないけど…あっちを止めるべきだと思うわよ」

そう言って紅が指差した先には、陸地に表れたわかめときらりと黒光る頭―――ではなく、赤也とジャッカル。
とある岩に張り付くようにしている二人を見れば、何をしているのかは歴然だ。
二人の姿に気付いた仁王が、やれやれと溜め息を吐く。

「まったくあいつらは気の利かん…」
「赤也とジャッカルだからね。いってらっしゃーい」

ひらひらと手を振る紅に見送られ、重い腰を持ち上げる仁王。
迷惑そうにしつつも動くのだから、よほど二人を応援していると言うことか。
珍しいわね、と思いつつ、諦めていないブン太の手を引いた。

「ほら、仁王が止めにいったんだし、ブン太も諦めなよ」
「えー?折角面白いもんが見れんのに?」
「それに、あれだけ派手に動いていれば、そろそろ気付かれると思うのよね」

ちらりと横目に見た赤也とジャッカルは、互いに押し合い圧し合いして場所を取り合っている。
この位置だと彼らの会話は聞こえないけれど…少なくとも、真田たちの所には届いているのではないか。
そんなことを考えていた、その時―――

「あ」
「…見つかったわね」

びくぅ、と大げさなほどに反応した彼らが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
途中まで歩いていた仁王の横をすり抜け、素晴らしい速度で砂地を走ってくる。
その向こうから、鬼の形相をした真田が追いかけくるのが見えた。
紅、ブン太、柳に柳生の四人の横を走り抜けるジャッカルと赤也。
数秒遅れるようにして走り去る真田。
無言でそれを見送った四人の間に、微妙な空気が流れた。

「…良かったね、行かなくて」
「………おぅ」

膨らまされたガムがぱん、と音を立てた。








帰り道、自分のことを棚にあげて赤也とジャッカルをからかうブン太は最後尾。
いつの間にか隣には悠希がいて、思い出したように口を開いた。

「ごめんね、うちのお馬鹿が邪魔したみたいで」
「はい―――って、え!?いえ、私は、別に…」
「あぁ、気を使わなくていいから。寧ろこっちが気を使うべきだったのにね」
「そ、そんなことは…」

尻すぼみになっていく彼女の声を聞いていれば、その残念な心中が伺えると言うものだ。
彼女の隣を歩く配慮すらない真田は少し前を歩いている。
まったく、どうしてこんな可愛い子があの真田に惹かれてしまったのか。
悪い人間ではないとは知っているけれど、納得できないのは仕方ないのかもしれない。

「…苦労するね、悠希ちゃん。見えてるものに気付かない真田が相手だと」
「私は、その…苦労だと、思っていませんから…」
「悠希ちゃん…あなた、いい子だわ!」

ひとつしか違わないのに、4歳離れている従姉妹を思い出す健気さだ。
思わず彼女の身体をひしっと抱き寄せてしまう。
頬を赤くして慌てる彼女が可愛かった。

「あー!!紅!何やってんだよ!!」

後ろにいたブン太にはその様子が見えたらしい。
慌てて駆け寄って来ながらあげたその声に気付いた真田たちが振り向く。

「な、何をしておるのだ、雪耶!!」
「何って…悠希ちゃんを抱きしめてるだけ」

可愛いんだもん、と告げたところで、追いついてきたブン太に引き剥がされる。

「抱きつくなら俺にしろよ!」
「抱きついてたんじゃなくて、抱きしめてたの」
「どっちも同じだろぃ!」
「んー…じゃあ、可愛いって言っていい?」
「男に向かって言うセリフじゃねぇよ!」
「じゃあ、無理じゃない。私は可愛いものを抱きしめたいの。女の子を抱きしめるのは同性の特権よね」

必死になっているブン太が、からかわれているのだと気付くのはいつになることやら。
ふふ、と笑いながら、紅は悠希を振り向いた。
彼女の隣には、紅の行動を警戒したらしい真田が並んでいる。
結果としては、上手くいったようだ。
よかったね、とアイコンタクトをしてみれば、悠希は顔を赤くして視線を落とす。
自分では経験のない初心さに、紅はくすくすと笑った。

「紅!」
「ブン太。手、繋ご?」
「え、お…おう」

有無を言わさずにその手をとれば、急に静かになる。
彼も十分素直だな、と思いながら、傾き始めた夕日を見た。
中学校最後の夏休みの最終日としては、なかなか思い出に残る一日だったのかもしれない。

09.06.07