白猫シリーズ
「ねぇ、セバスチャン?」
にっこりと微笑むコウの表情は、それはそれは美しい。
しかし、見る者をゾクリとさせる力を秘めている笑顔。
そんな彼女の表情には慣れているのか、セバスチャンは特に表情を変えずに「何ですか」と首だけ振り向いた。
「私はあなたに喧嘩を売られていると思っていいのかしら?」
鈴の鳴るような、と言うたとえがある。
まさしく、そんな感じの声だ。
高すぎず、低すぎず。
耳触りの良いその声が鼓膜を震わせる。
紡がれた内容もそれに比例した内容であれば言うことはなかったのだが。
「喧嘩を売るなど…そんな卑下な真似はしませんよ」
「―――…そう」
一瞬浮かべられた憂いにも似た表情は、見る者をドキリとさせる。
セバスチャンは彼女に狙われた魂が確実にその手中に収まるのも、無理はないと思った。
彼女は人の心を掴む表情や仕草をよく理解し、ごく自然な形で再現できる。
自然体がそうなっていると言っても過言ではない。
「なら、まずは私と話している時くらいその猫を放したらどうなの?」
その言葉に、反応したのは彼ではなく、その手の中に居た猫だった。
まるで怯えるように「に゛ゃー!」と鳴いてから、セバスチャンの手を引っかいて逃げ出していく。
「おやおや」
手の甲に残った引っ掻き傷を見下ろし、そう呟く。
走り去る猫の背中はいつもより大きく見えて、身体中の毛が逆立っているのだとわかった。
どうやらとても怖かったらしい。
明日からまた来てくれるだろうか―――そんなことを考えつつ、身体ごと振り向く。
今はもう1匹の猫をなんとかしなければ。
「コウの所為で逃げられてしまいましたよ」
「私は何かした覚えはないわ」
フン、と顔を背ける彼女に、彼は心中で笑いを零す。
―――本当にわかりやすい人ですね。
背中を向けてしまった彼女に近づき、後ろから彼女を抱きしめる。
だが、腕が完全に回りきる直前に、その身体は風のように消えた。
正確に言うならば、縮んでしまったのだが。
「触らないでくれる?」
そう言って自分を見上げてくる白猫。
先ほど抱き上げて撫で回していた黒猫とは対照的な色だ。
しかしながら、その毛並みの艶や顔の造作の凛々しさなどは、比べ物にならない。
「何で猫に変身してしまうんです?」
「いつ変身しようと私の勝手でしょう。セバスチャンに拘束される理由はないわ」
ペシ、ペシ、と尾が石畳を叩く。
セバスチャンは彼女を見下ろし、ポツリと呟いた。
「…うーん…困りましたね。白猫のあなたを抱き上げたくはないんですけれど…」
「一般的に不吉の象徴だと言われる黒猫なら良くて私は駄目だと言うのね」
鋭い視線が向けられ、彼はより一層笑みを深めた。
そんな彼の表情に気づいたコウは、ムッと表情を歪める。
そうは言っても猫の姿なのでさほど表情は変わらないのだが。
「元に戻りませんか、コウ」
「……………」
顔を背けたまま沈黙を保つ。
暫く無言の時間を過ごし、折れたのもまた、彼女だった。
瞬く間に人の姿へと変化した彼女は、これで満足か、と言いたげな視線を向けてくる。
「ありがとうございます」
そう言うと、ではさっそく、と告げて彼女の身体を引き寄せる。
突然抱きしめられたコウは、抵抗することも忘れて目を瞬かせた。
見えるのは彼女の背中だけだが、それでもどんな表情を浮かべているのかが手に取るようにわかる。
セバスチャンは心中でクスクスと笑い、大人しく抱きしめられている彼女の髪を撫でた。
「猫に嫉妬ですか?」
「そんな…つもりはないわ」
「私はあなたより猫の方が好きだと言った覚えはありませんよ?」
そう言えば、彼女の肩がピクリと動く。
それが図星だと言うことは反応を見れば明らかだ。
「白猫のコウもとても美しい。嫌う筈がないでしょう」
「…でも、抱き上げたくはないんでしょう?」
「それは…否定しません」
小さなため息が聞こえた。
まったくもってわかりやすい反応だな、と思う。
こんな風に小さな嫉妬心を抱いてくれる彼女も可愛らしいのだが、そろそろ潮時だろう。
「黒い服に白い毛は目立ちますからね」
「――――――」
コウの動きがぴたりと止まった。
恐らく、彼が告げたその内容を理解するのに時間を要しているのだろう。
「…え。それが…理由?」
「ええ。ですから、この姿のコウならいくらでも抱きしめてあげますよ」
そう言って先ほどよりも強い力で彼女を抱きしめる。
そんな彼に、コウは深くため息を吐き出した。
彼女の心情などどこ吹く風、と言った様子で、その柔らかい身体を堪能するセバスチャン。
日々の苛立ちが見る見るうちに癒されていくのを感じる。
「やっぱりコウを抱きしめていると癒されますね」
「…そう。良かったわね」
こっちは疲れた、と言わんばかりに脱力している彼女。
完全に身体を預けている彼女の髪に指を通し、何度も梳く。
「大体、コウがいけないんですよ。戻って欲しいと言っても戻ってくれないんですから」
例の使用人たちの小さな失敗続きのお陰で、かなり苛立ちが溜まっていた。
爆発してしまえば、死人が出かねない。
その前に彼女を探し出すことには成功したのだが、いつものように白猫の姿のままの彼女。
いくら言っても戻ろうとはしない彼女に痺れを切らし、裏口の猫に走った―――これが事実だ。
「シエル以外の人間は私のことを知らないんだから、仕方ないでしょう」
シエルが白い猫を飼い始めたということは使用人の間にも行き渡っている。
しかし、それが彼の家庭教師として週に何度か姿を見せるコウだと知る者はいない。
そのため、迂闊にこの姿を人目に晒すことは出来ないのだ。
猫に変身できるなど、普通の人間ならばありえないのだから。
「だから私の部屋で構わないと言ったでしょう」
話を聞いていなかったんですか?と問う彼に、それならばとばかりに言葉を返すコウ。
「仕事中でしょうと言ったはずよ」
聞いていなかったのかしら?と返しつつ、彼の腕から抜け出す。
捕らえ続けることなど簡単なことだが、セバスチャンはあっさりとコウを放した。
「つれない人ですね、あなたは」
「…仕事中に私を求める方が間違っていると思うわ」
そう言って肩を竦め、踵を返す彼女。
今しも猫に変身してしまいそうなその背中をもう一度引き寄せる。
すっぽりと収まってくる彼女は、そのまま背中からその胸に飛び込んできた。
「セバスチャン」
「もう少しだけ」
やや咎めるようにそう言ったコウに、セバスチャンの返事が返ってくる。
肩口に顔をうずめるようにして腕の力を強めた彼に、コウは溜め息を吐き出した。
どこか嬉しそうに答えた彼の腕を振り払うことは出来ない。
「―――…シエルが怒ってるわよ」
「別に構いませんよ。毎日しっかり働いていますから、少しくらい許してもらわないと」
「…まぁ、私は別にそれでも構わないけれど」
背中から抱きしめられたまま上を見上げているコウ。
彼女の視界に、何かが降ってくるのが見えた。
正確にセバスチャンの頭上へと落下してくるそれ。
それはインク壷で、落下地点から考えて被害をこうむるのは明白だ。
仕方なく受け止めようと腕を上げる彼女のそれよりも先に、抱きしめていた腕が解ける。
そして、難なくそのインク壷を受け止めた。
「…坊ちゃん」
「人の窓の外でいちゃつくな。不愉快だ」
「おや…羨ましいなら、今日の晩餐にエリザベス嬢をご招待しましょうか?」
「するな」
窓から覗かせていた顔を引っ込ませるシエル。
やや乱暴にそれを閉じる音が聞こえ、コウはセバスチャンの腕の中で猫の姿に変わる。
するりとそこを抜け出し、今度こそ屋敷の中へと歩き出した。
心まで猫になっているような素っ気なさ。
それも彼女らしいなと思いつつ、先ほど引っかかれた手の甲をペロリと舐めてから歩き出す。
08.03.18