白猫シリーズ
肉球と廊下の敷石とは、どうやら相性がいいようだ。
足音を忍ばせる必要もなく、無音で歩を進めることが出来る。
別段それがどう、と言うことはないが、やたらと煩いよりは喜ばしいことだと思っている。
「シエルはどこに行ったのかしら」
まったく…と溜め息を吐き出す白猫。
見る角度によっては銀色にも見えるような、美しい毛並みの猫だ。
だが、それが普通の猫ではないことは、上のように人語を話していることからもわかってもらえるだろう。
「私の授業をサボろうなんて、いい度胸だわ」
そんなことを呟きつつ、廊下を歩く彼女。
もちろん人の姿で歩くよりも遥かに時間がかかってしまう。
しかし、コウにはその姿を変えられない理由があった。
「あ、コウ!こんな所にいたんですか~!」
バタバタと足音が近づいてくる。
静寂を好む彼女にとって、この音は不愉快だ。
しかしながら相手のそれを諌めることも出来ず、彼女はただ「にゃあ」と猫らしく鳴いた。
「坊ちゃんから外に出してあげるように頼まれてるんですよ」
だから出してあげますね~、などと言って腕を伸ばしてくるのは、この屋敷の庭師だ。
生み出す造形は、いっそ感心したくなるくらいに酷い。
一度ゼロから勉強しなおして来い、と言いたくなるくらいだ。
コウはその腕に捕まらないよう、トンと床を蹴ってその足元をすり抜けていく。
「あー!!逃げちゃ駄目ですよ!食べたりしませんから!!」
そう言って追いかけてくるけれど、いくらリーチに差があろうとも、本気を出せば動物の方が速い。
その声はすぐに聞こえなくなった。
「庭師を使って授業を逃れようなんて…甘いわね、シエル」
絶対に見つけてやる、と彼女の目がギラリと輝いた。
コツ、コツ。
決して急いでいるようには見せず、けれども移動速度は速く。
そうして歩いていたセバスチャンは、前の廊下を歩いていく小さなそれを捉えた。
そして、おや、と首を傾げる。
確か、今の時間は家庭教師をしているはず。
それなのに、その教師たる彼女が、何故ここにいるのか。
「コウ」
そう呼べば、猫の聴力がしっかりとその声を捉えてくれる。
便利なものだな、と思いつつ、彼女に近づいていく。
「何をしているんです?授業はどうしました」
「あなたの主に言ってくれるかしら。生徒が居なければ授業も何もないわ」
「あぁ…逃げましたか。どうしようもない坊ちゃんですね」
にっこりと笑いつつ、彼は周囲を見回す。
それから、自身の懐中時計を開いて時間を確認した。
「おそらく中庭でしょう」
「契約者の場所を辿ったの?」
「まさか。この程度、辿るまでもありませんよ」
今までの経験で十分です。
そう答える彼に、あぁ、そう、と溜め息を吐き出す。
どうやら、この生徒は今までも授業をサボっているようだ。
「さっき庭師に追いかけられたわ」
「それはそれは…。怪我はありませんか?」
「あると思うの?」
「いいえ。庭師の方は私に任せてください」
綺麗な笑顔なのに、何故こうも背筋が疼くのだろうか。
少しばかり表情を引きつらせた彼女に、彼は「何か?」と問う。
あなたの笑顔が怖いです、なんて言える筈もない。
「じゃあ、私はシエルの所に行って来るから…」
「はい。急いで階段から落ちたりしないでくださいね。怪我は駄目ですよ」
「…わかってるわ」
そう答えると、コウは中庭へと急いだ。
人の姿がないことを確認し、コウは人へと変化する。
目線が高くなれば、自然と見える範囲も広くなる。
そして、広くなった視野により、漸くその姿を見つけた。
「シエル」
声をかければ、その背中がピクリと動く。
殊更にゆっくりと振り向く少年に、彼女は心中で苦笑した。
「そんなに授業が嫌なの?」
彼女はシエルの隣に腰を下ろし、そう問いかける。
問答無用で連れ戻されるわけではないと知ると、彼は肩の力を抜いた。
怒られないと思っているなら甘いけれど…それを今いう必要はないだろう。
「別に…そう言うわけじゃない」
「じゃあ、私が嫌い?まだ許せないのかしら」
「……………」
沈黙は肯定と取っていいのだろうか。
やはり、それが原因か。
予想通りと言うか何と言うか。
「許してくれなくていいのよ。許そうと思う必要もない。私は…レイチェル達を救えなかったんだから」
あの日、コウは屋敷にいなかった。
偶然魔界に呼び出されていた彼女は、向こうでその訃報を聞いたのだ。
すぐに魂を取りに行けと命じられたが、彼女はそれを頑なに拒んだ。
その結果、彼女は王たる父の怒りを買い、十字架をその胸に刻まれたのである。
そんな事の由をシエルに伝えることは、これから先もないだろう。
だからこそ、彼は戸惑っているのだ。
心を許すことに対して、まるで怯えているかのように。
「後悔しているのか?…悪魔が」
「いい事を教えてあげるわ、シエル。悪魔は意外と後悔は多いのよ。
あの時ああしていれば、極上の魂がもらえたのに。あの時こうしていれば、より多くの魂をもらえたのに―――ってね」
「………!」
「私の場合は―――」
あの時屋敷に居たなら…。
心の中でそう続け、コウは嘆息した。
それから、静かに立ち上がってシエルに手を差し出す。
「その感情を捨てる必要はないわ。だけど…お互いの利益のために、協力してちょうだい?」
「利益…?」
「セバスチャンに素敵な笑顔で怒られたくはないでしょう?」
彼女の言葉に、シエルも彼の笑顔を思い出したのだろう。
やや口元を引きつらせた状態のまま、こくりと一度頷いた。
「私もあの笑顔は嫌いなのよ。いっそ、般若のような表情で怒られた方がマシだわ」
「はんにゃ?」
「あぁ、島国の話よ」
わかっていないだろうけれど、ふぅん、と納得したように答えてみせるシエル。
それから、彼はコウを見上げた。
「…お前を信じるかどうかは、もう少し様子を見る。今は…お互いの利益のために」
「話がわかるご当主でよかったわ」
差し出された彼女の手に己のそれを重ねる。
少しだけ躊躇いがちに、でもしっかりと握られたその感覚が、懐かしさを呼び起こした。
「シエル。この人はね、私の古い友人なのよ」
そう言って母は彼女を紹介した。
偶に姿を見せるその人は、自分にもエリザベスにも優しかった。
まさか、その人が母の猫と同一人物だとは思わなかったけれど。
優しい記憶があるからこそ、遣る瀬無い感情がシエルの中に深く根を残している。
利益のため―――自身をそう思い込ませ、彼はコウの手を握り返した。
08.01.28