白猫シリーズ
「お前…!!」
シエルの表情が怒りに染まる。
それを見て、コウは悲しげに微笑んだ。
彼は彼女の表情など気づく余裕もない。
「今更何をしに来たんだ!?母さんや父さんの魂を奪っていって、まだ足りなかったのか!!」
「坊ちゃん。少し落ち着いてください」
「うるさい!!こいつは悪魔だ!いつも母さんと一緒に居た!!あの日、母さんの魂を持っていったんだろう!!」
「坊ちゃん!」
少し強めに声を上げれば、彼はその強さに思わず息を呑む。
この少年がここまで激昂するのは珍しいことだ。
落ち着いて、ともう一度繰り返すと、セバスチャンはコウに向き直る。
そして、彼女の胸元のボタンをひとつ外し、そこをバッと押し開いた。
「―――…やっぱり…。こんなことだろうと思いましたよ」
「………………………」
滑らかな白い胸の間に、おどろおどろしい赤が刻まれている。
まるで血のようなそれは、蔓の絡まった十字架だ。
コウはセバスチャンの視線から逃げるように顔を背ける。
「随分と…王の機嫌を損ねたようですね」
彼の言葉にシエルは眉を顰めた。
そして、どう言う事だと問う。
「こいつは母さんと契約していた。証を見たことはないが…いつも一緒だった」
「契約の証そのものはすでに消えておりますので、判断は致しかねますが…。
少なくとも、“魔界の秩序”の機嫌を損ねる事態を引き起こした事は事実でしょう」
「魔界の秩序…?」
「ええ、坊ちゃんにもわかり易く言うならば…魔王、とでも言っておきましょうか」
本来は魔界に秩序など必要ない。
だが、それを作ることの出来る実力者が魔界を纏め上げた。
それが、今の魔界の原点だ。
わかったような、わからないような―――そんな状態のシエルだったが、今はそんなことはどうでもいい。
「その紋章は何だ」
「罪人の証ですよ。理由はわかりませんが、王が決めた掟に背きし者に刻まれる証」
「………」
「私自身の見解では…彼女は、恐らく―――」
セバスチャンがそう言ったところで、彼女はその手を振り解いた。
そして胸元を整えると、その足で部屋から飛び出していく。
引き止める暇すらなく、彼女はまるで風のようにそこから消えてしまった。
「…庇ってるんじゃないだろうな」
「まさか。驚いているくらいですよ。彼女が…王に背くとは…」
「…知り合いか」
「関係は…ありますよ、色々と。坊ちゃん、少々席を外しても構いませんね?」
セバスチャンはにっこりと笑って問いかける。
彼の視線の先には、山と詰まれた課題があった。
シエルはハァ、と溜め息を吐き出してから、さっさと行けとばかりに手を振る。
彼は礼を述べると見本のようにきっちりと頭を下げ、部屋を後にする。
部屋を出た後のセバスチャンは、まるで人が変わったような目を見せた。
複雑そうで、困惑していて…怒っていて、それでいてどこか喜んでいて。
要するに、様々な感情を見て取ることが出来た。
彼はそんな表情を消さないまま、迷いなく歩き出す。
いつの間にかやってきたのは墓地だった。
コウは何かに誘われたかのように歩き、やがてひとつの墓石の前で足を止める。
ふと、それを見下ろしていた彼女の身体がぐらりと傾いた。
倒れこむかと思うような姿勢で背を丸め、そのまま彼女の身体が縮む。
瞬き三度分の間に、彼女は消えた。
そして、代わりにそこには真っ白な毛並みの美しい猫が一匹。
「…本当に、死んだのね…」
猫…コウはそう呟いた。
墓の前で座り、じっとそれを見下ろす猫。
傍から見れば、主人を悼むような光景だ。
いや、まさにそうなのだ。
コウにとって、この墓石の下に眠る人は、大切だった。
悪魔が何を、と笑われるかもしれないけれど。
だから、罰せられるとわかっていても、彼女の魂を持っていくことが出来なかった。
その結果、自分の胸には悪魔にとっては屈辱的なこの紋章が刻まれている。
「まさか、あなたがその紋章を受けるとは思いませんでしたよ」
コツリ、と足音がして、そんな声がコウの鼓膜を揺さぶる。
彼女は振り向かなかった。
「誰よりも秩序を遵守してきた…魔王の娘であるあなたが、まさか十字架を刻まれるとは」
「…人は変わるわ」
「何を戯れを。あなたは“人”ですか?」
そう言って笑うと、セバスチャンはコウを抱き上げた。
あたたかくて柔らかい猫の身体は、いとも簡単に地面を離れてしまう。
「おろしなさい。否応無しに地面から引き離されるのは不愉快よ」
「なら、元の姿に戻ればいい」
「あなたの言う元の姿と言うのは、この姿の事かしら?」
腕に抱いていた彼女の身体が、先ほどの人型のそれに戻る。
それでも尚彼女の足は地面と再会する事無く、まるで赤子のように抱き上げられたままだ。
「久しい再会ですね」
「…ええ、そうね。まさか、あなたがシエルと契約するとは思わなかったわ。あの子は…私が守る筈だったのに」
それは、既に亡き友との約束。
自分に何かあった時には、息子を頼むと。
そう言った彼女…シエルの母、レイチェルとの約束だ。
ふとした会話の中でのものだが、コウはそれを覚えていた。
「羨ましいですね。あなたに、そんなにも愛されている人が」
セバスチャンはそう言って口角を持ち上げる。
コウの向こうに見える墓を見下ろす目はどこか冷たい。
そんな彼に、彼女は溜め息を吐き出してその腕を逃れるように動いた。
するり、と腕を抜け出した彼女は、そのまま地面へと降り立つ。
トン、と地面に着地した時には、その姿は再び猫のそれへと変化していた。
「何故その姿に拘るんです?」
「…レイチェルの傍に居たのは、この姿だったから」
綺麗ね、と自分の白銀の毛並みを撫でてくれたあの優しい手。
魔界と言うあたたかさのない世界で暮らしていた彼女には、それはあまりに優しすぎた。
信用しきって、そして依存してしまうほどに。
「王には随分怒られたんじゃないですか?」
「…そうね。その身体に染み付いた人間の臭いを落とさない限りは魔界の地を踏ませない、って。
怒りが冷めるまでは、きっと百年単位の月日が必要ね」
別に構わないけど。
そう言って、彼女は墓の前にちょこんと座り込む。
「あの日、何があったんです?」
「…さぁ。私、あの日は屋敷に居なかったから」
何も知らないわ、と答える彼女に、セバスチャンは小さく溜め息を吐き出した。
久々の再会だと言うのに、彼女は満足に緯線もあわせない。
そんな彼女に、どこか苛立ちを覚えた。
「暫く魔界には帰れないんですね?」
「そうね。怒りが収まるまでは」
「結構。それなら、坊ちゃんの傍に居るといい」
そう言うと、漸く彼女の目が彼を映した。
何を言っている、と言いたげなその目に、彼はにこりと笑う。
「帰るなと言ったのは王の方でしょう?それなら、あなたがどこに居ようと問題はないはずです」
「屁理屈ね」
「どうとでも。私はあなたにその意思があるなら、坊ちゃんを説得しますよ。…どうしますか?」
差し出された手と、後ろにある墓を交互に見る。
それから、コウは諦めたように溜め息を吐いた。
「黒執事…ねぇ。言いえて妙だわ」
「光栄です」
「ここではセバスチャンと呼べばいいの?」
問いかけに対し、是非、と言う答えが返って来る。
何だが、自分の知っている彼じゃないみたいだ。
もう一度人型へと変化すると、ふっと苦笑を浮かべる。
そして、彼女は彼の手に己のそれを重ねた。
08.01.25