砂時計 -Sandglass-
「―――…」
瞼の向こうに明るさを感じ、ゆっくりと目を開く。
初めに見えたのは天井。
感じの良い調子で整えられた室内は、醜い戦いの中を生きてきたコウには眩しく見えた。
そっと目を細める彼女は、状況を整理しようとベッドに横たわる。
この姿勢が楽だと感じると言うことは、どこかしら身体が弱っているのだろう。
コウはそれを休めるように力を抜き、頭だけを動かすことにした。
―――アクマ破壊の任務について、アクマを全て破壊して―――そして、ノア、と。
脳裏に浮かぶ映像はコウの記憶だ。
彼の姿が脳裏を過ぎり、ポロリと涙が零れ落ちた。
具合が悪いわけでもないのに、ズキンズキンと痛む胸に手を当てようとする。
しかし、利き腕である右手を動かした所で、彼女は手の甲に巻かれた包帯の存在を知った。
そうだ、イノセンスは一体どうなった?
あの時、確かにイノセンスを拒んだ。
神に見放された咎落ちとして死ぬものと思っていたのに、自分は―――生きている。
それとも、実は死んでいて、ここは天国…いや、地獄なのだろうか。
もしそうだとすると、想像とは随分と違っている。
コウは手の甲に巻かれた包帯を見つめ、やがてもう片方の手をそこへと運んだ。
この白い包帯の下がどうなっているのか。
見たくないと訴える胸の内を抑え、見なければならないと言う義務感を掻き集める。
震える指先が包帯の端を探し出した所で、ガチャリ、と言う音がした。
バッと、弾かれるように手を離し、ドアの方を見るコウ。
開かれたそこから入ってきた女性は、自分の方を見ている彼女に目を丸くした。
それから、安堵の表情を浮かべ、美しく微笑む。
「…あら、ごめんなさい。目を覚ましていたのね」
良家の女性なのだろう。
この、立派だけれども品の良い部屋を持つ屋敷の者なのだと言われれば、なるほどと頷ける。
子供の一人くらいはいたとしてもおかしくない年齢であろう女性は、穏やかに微笑む。
「まだ顔色が悪いわね。もう少し休んだ方がいいわ」
「あの…あなたも、あまり良い顔色ではないようですが…大丈夫ですか?」
「まぁ。私はいつもの事だから、心配してくれなくても大丈夫よ」
くすりと笑った女性は、コウの肩を柔らかく押し戻し、ベッドへと横たわらせる。
そして、コウが全ての疑問を口にしようとした所で、彼女の唇の変わりにドアが開かれた。
「お義母様。起きた?」
「ええ、目が覚めたみたいよ」
「ふぅん…じゃあ、知らせてあげないとね。鬱陶しいくらいにそわそわしてるから」
軽い足音をさせながら部屋の中に入ってきた少女は、母と呼んだ女性を見上げた。
少女の意図する所を察したのか、女性は小さく頷いてから少女の頭をなでる。
「叔父様を呼んでくるから、一緒に居てあげてくれる?」
「うん。いいよー」
いってらっしゃい、と手を振る少女に見送られ、女性は部屋を後にした。
その間、一言も声を発することが出来なかったコウ。
二人きりになった途端に、少女の纏う空気が変わった気がした。
「身体はどう?どこも痛くない?―――右手の甲、とか」
確信を持った問いかけに、コウの表情が凍りつく。
少女がその場所を示したのは、そこに包帯が巻かれているからではない。
彼女は、そこに何があるのかを知っている。
「あなたは…誰?」
「ロードだよぉ。さっきの人はトリシアお義母様」
そうじゃなくて、とは言えなかった。
知りたかったのは名前だけではない。
口を噤んだコウに、ロードはニコリと笑顔を浮かべた。
「コウが教えて欲しいのは、これのことでしょ?」
そう言い終わるが早いか、彼女の容姿に変化が現れる。
目を見開くコウの目の前で、肌が浅黒く変色し、額には十字の聖痕が生まれた。
「ノ、ア…」
「そう。ノアの一族」
驚いた?と笑う彼女は、すでに人の姿に戻っている。
呆然とした様子のコウを見て、ロードは悪戯を成功させた子供のような表情を浮かべた。
「…私は、生きているのね」
あの後のことは記憶にはないけれど、全てはこの包帯の下に隠されているような気がした。
しかし、これを取る勇気を持てずにいる。
そんなコウを見て、ロードがベッドに腰掛けた。
彼女の手を取り、そして迷いなく包帯を取り払う。
包帯の下に隠されていた、それは―――
「…蝶…?」
赤いイノセンスが存在した場所には、焦げ付いたような痕が残っていた。
そして、その上に存在する、闇を飲み込んだような蝶の模様。
「僕は、詳しい事は知らない。聞きたいなら―――」
ロードがドアの方を向く。
音もなく、いつの間にか開かれていたそこに佇む一人の男性。
品の良い服を身に纏い、けれど、どこか内面の砕けを感じさせるように上着を肩に担いで、彼はそこにいた。
ドクン、と心臓が熱を持つ。
「ロード。交代」
親指と人差し指をくるりと回し、ジェスチャーでそう示す彼。
「はぁーい」
彼が言い出すことなどわかっていた、とばかりに、ロードは軽やかにベッドを降りる。
そこから離れる直前、彼女はコウを振り向いた。
そして、にこりと笑う。
先ほどまでとは違い、どこか屈託のない年相応に見えるものだった。
「また話をしようね、コウ」
ひらひらと手を振り、彼女は部屋を去った。
バタンと閉ざされたドアが、室内に沈黙を連れて来る。
ティキの視線から逃げるように、コウは顔を俯かせた。
毛足の短い絨毯が敷かれた部屋の中は足音がしない。
代わりに気配だけが近付いてきて、視界の中に自分のものではない手が入り込んできた。
白い手袋に包まれたその手がコウの右手を攫い、ゆったりと蝶をなぞる。
「イノセンスの痕が残ったな」
「――――」
「この蝶、千年公が作ったゴーレムの一種。寄生型ってのは厄介だな。
深いところまで根を張ってたらしくて、正直、無理かと思った」
「――――でも…生きて…いるのね」
沈黙していたコウが、静かに呟く。
教団とは敵対する千年伯爵側の手を借りて、生き長らえた命。
幼い頃から骨の髄まで叩き込まれた教団の思念が、その事実に抵抗を抱かせた。
「あぁ。コウは生きてるし、イノセンスは壊した」
他に何か聞きたい事は?と問われ、コウは彼の手を見下ろした。
手袋の指先を摘み、軽く引っ張っていけば、抵抗感と共にそれが引き抜かれる。
「やっぱり…」
思ったとおりだと、そう呟く彼女に、ティキは小さく苦笑した。
彼の手の平には火傷の様な痕が残っていて、その原因は言うまでもなく自分のイノセンスだ。
イノセンスとノアは相対する存在で、互いに反発しあう。
あの時の傷が、こうして痕を残しているのだと思うと、心が痛んだ。
「ごめ―――」
「謝るなよ」
言葉の半ばで遮られ、強い視線で続きを抑えこまれる。
彼の声により、漸く顔を上げた彼女の視線が、彼の視線を捉えた。
目が合うと同時に、彼は柔らかく微笑む。
「この程度でコウが手に入ったんだ。寧ろ…感謝したい。一緒にってのも悪くないとは思ったけどな」
「…」
「イノセンスなんかにくれてやれねぇ。…わかってんだろ?」
一人分の体重が増えた所で、まだまだ許容範囲だとばかりに沈黙するベッド。
窓から差し込む日差しを遮るかのように、彼の身体がコウの上へと覆い被さった。
「ティキ」と小さくその名を紡げば、一瞬の間を置いて嬉しそうに笑う彼。
もう躊躇いなくその名を呼べるのだと、この人を受け入れていいのだと思うと、素直に嬉しかった。
「…不思議。ずっと、兵として終わるんだと思い込まされてきたのに。ノアに、心を奪われるなんて」
「俺も、不思議。初めて執着するのが、エクソシストだとは…予想してなかった」
「でも、エクソシストじゃなかったら…出会わなかった」
「俗に言う運命って奴か?信じてなかったんだけどな」
彼の頬へと滑らせた手は、傷痕の残る手により握り締められ、シーツへと縫い止められる。
口以上に感情を表す眼差しを見下ろしたティキは口角を持ち上げた。
「ティ―――」
「後でいくらでも呼ばせてやるから、今だけはちょっと黙れよ」
繋がった二人の手に残る痕が、見えない絆を生み出しているような気がした。
もう、敵だと自分を抑える必要はない。
そう思うと…ただ、この瞬間すらも愛おしかった。
08.12.11